2000/06/30

Townsville2

6月30日(金)
タウンズビル Townsville は、ケアンズの南約350kmに位置する人口13万人の美しい街。'dry tropic' と呼ばれるノース・クイーンズ・ランドにあって、晴天日数は年間320日にのぼるという。1864年に開設され、後にシドニーのビジネスマン Robert Towns にちなんで名づけられた。
タウンズビルには、1896年(明治29年)初めて日本の領事館が開かれた。
当時、クイーンズランド州の沿岸地帯に広がるサトウキビ畑で働く日本からの出稼ぎ労働者が多く、この街には900人もの日本人が住んでいた。
1908年領事館はシドニーに移ったが、その後も代々名誉総領事をつとめたグリーン家が、今では史跡記念物になっている。
クイーンズランドのサトウキビについては、こぼれ話シリーズ第9話「サトウキビ鉄道」を参照されたい。

久し振りにクイーンズ・ランドに戻ると、太陽の光がまぶしい。
朝、洗濯を済ませて、トランジット・センターに寄り、ケアンズまでの最後のバスの座席を予約。残りのキロ数を確認すると、充分残っていた。

ロス・クリーク Ross Creek にかかる歩道橋 Victoria Bridge を渡って、フリンダーズ・モール Flinders Mall へ。南側の白いT&Gビルと北側の中央郵便局G.P.Oの2つの時計台を持つ建物の間、約300mがモールになっている。【写真右】G.P.Oから北東に Flinders St. East を歩くと、両側に洒落たレストランやコロニアル風のパブ、バックパッカーズなどが並んでおり、この辺までが市街地といった感じか。
ロス・クリーク沿いの道をブラブラ進むと、右側にトロピカル・クイーンズランド博物館と世界有数の巨大水槽のあるリーフ・エイチ・キューがある。時間つぶしに博物館だけのぞいてみた。

左に折れて Kings St. をほんのちょっと進み、海沿いの公園アンザック・メモリアル・パーク Anzac Memorial Park にぶつかる。【写真左】公園からクリーブランド湾に沿って続く通りが、ザ・ストランド The Strand 。ちょうど今日からスクール・ホリデーに入っていて、BBQを楽しむ家族連れや、先生に引率されて海辺で砂遊びに興じる子供たちが大勢いる。
我々も靴を脱いで砂浜を歩き、途中で買ったサンドイッチで昼食にした。

宿に帰って、廊下でタバコを吸っていると、一人旅の日本人、22歳のI君と会う。若い頃バイクでアメリカを横断したお父さんにあこがれ、今こうしてオーストラリア一周の旅に出たのだという。感じのいい、かっこいい青年だ。
宿の裏、パルマー・ストリート Palmer St. にあるバー&レストランに夕食に誘う。我々はスコッチ&ウォーター、彼はビール。
I君に話しかけてきた酔っ払いのおじさんが、いつの間にか同じテーブルに居座る。チェコからの旅行者で楽しい人だが、相当酔っていて英語がほとんど聞き取れない。
10時半を回ったところで、チェコ氏をI君にまかせ、バイク旅行の安全を祈って宿に戻った。

2000/06/29

Townsville1

6月29日(木)
バスは、20時30分、約1時間遅れでタウンズビルのバス・ターミナルに到着。ホテルに、バスが遅れてこれから向かう旨を連絡すると、レセプションは8時半まで、すぐ来いという。
重い荷物を背負って走るようにして駆け込む。どうにか間に合った。毛布2枚を借りて部屋に上がったら、ベッド・シーツが1つ分しかセットされていない。慌ててレセプションに駆け下りると、既に閉まっている。中身がこぼれそうなぼろぼろのマットレスの上で1晩寝る羽目になってしまった。名前は、アドヴェンチャー・リゾート Adventure Resort とかっこいいが、やはり値段だけのことはある(ツイン$31)。
持っていたインスタントもので夕食を済ませ寝てしまった。

2000/06/28

Alice Springs

6月28日(水)
昨夜泊まった宿は、メランカ・ロッジ・バックパッカーズ Melanka Lodge Backpackers 。ここは一泊だけなので、朝起きて夕方バスに乗るまでの、僅かな時間の滞在となる。
アリス・スプリングス Alice Springs は、北のダーウィンから南のアデレードまでオーストラリアを南北に貫くスチュアート・ハイウェイの中間に位置し、周囲をマクドネル山脈 Macdonnell Ranges に囲まれている。19世紀末に誕生したフロンティア都市だ。
1871年電信敷設工事の測量のためにこの地を訪れた測量技師が、当時アボリジニの間でツリアラと呼ばれていた泉を見つけ、当時の電信総監チャールズ・トッド Charles Todd の妻の名にちなみ『アリスの泉』と名付けたという。
事実、レッド・センター Red Centre と呼ばれるオーストラリアの中央部を旅してここにたどり着いた人にとっては、文字どおりオアシスを見つけたような気持ちになる。

宿を出て、荷物をグレイハウンドのターミナルに預け、街の中をぶらつく。街の中心部は実に小さい。およそ300m四方の中に、郵便局や銀行、商店、レストランが並んでいる。中心は、トッド・モール Todd Mall 。カフェ、レストラン、お土産屋などが並び、一日中賑わっている。モールの中ほどにある屋外ステージでは、地元高校のオーケストラの演奏会が行われていた。
また、アボリジナル・アーツや工芸品の店もたくさんあり、ユーカリの樹の皮に絵を描いたバーク・ペインティング、モダンなデザインのネッカチーフやテーブル・クロスなどが置いてある。
アボリジナル・ランド Aboriginal Land に近いこのあたりでは、街の中で見かけるアボリジニの人達も多い。しかし、一般的には定職に着いていないようで、いつもブラブラでしているか、公園や広場でたむろしている。

モールの真ん中の角にあるアリス・プラザ Alice Plaza は、アトリウムのある洒落たショッピング・センター。モールの1本西側の通り、ハートレー・ストリート Hartley St. のGPOの斜め向いには、あのウールワースが入ったイェペレニー・ショッピング・センター Yeperenye Shpping Centre がある。例によって、ここのフード・センターで早めの夕食をとる。

17時15分、アリス・スプリングスのターミナルを出発して、次の宿泊地タウンズビルに向かう。移動距離約2050km。途中、テナント・クリーク Tennant Creek で乗り換えて、所要時間は約26時間。今までで2番目の長距離移動となる。
ダーウィンに向かうワーホリの連中が何人か乗っている。エアーズ・ロックに登ってきたらしく、大感激の様子。
西の空の夕焼けがきれいだ。

2000/06/27

Ayersrock4

6月27日(火)
5時前、部屋のキーをレセプションの外のキー・ボックスにほおり込んで、ツアー・バスを待つ。外はまだ真っ暗である。
今日は、エアーズ・ロックを発って、キングス・キャニオン Kings Canyon からアリス・スプリングス Alice Springs へ行く。旅もいよいよ終わりに近づき、あとは帰国の飛行機に遅れないように、ケアンズにたどり着くだけだ。

エアーズ・ロックを出て、まだ明けやらぬラセター・ハイウェー Lasseter HWY を東に。右手にマウント・コナー Mt. Conner を見ながら、レッド・センターをただただひた走る。そういえばまだ朝飯前、と思ったところでバスが一時停車。サンドイッチとコーヒーで朝食。ハイウェーを外れ、アンガス・ダウンズ Angas Downs を経て、9時30分にキングス・キャニオン・リゾートに到着する。約300km走っている。

キングス・キャニオンはワタルカ国立公園 Wtarrka National Park の中にあって、中央オーストラリアの中で最も壮大な光景をもつと言われているところ。切り立った崖の高さは最高270m。その岩肌はクリーム色から深紫色まで、実にさまざま。
ちょっと規模は小さいかもしれないが、グランド・キャニオンのオーストラリア版といったところだ。
峡谷の崖の上に上りぐるっと一周するザ・キングス・キャニオン・ウォーク The Kings Canyon Walk (所要時間3~4時間)と、峡谷の谷を歩くザ・キングス・クリーク・ウォーク The Kings Creek Walk (同1時間)があるが、小生一昨日のエアーズ・ロック登坂に懲りて、クリークの方を選んだ。(当然、家内も一緒)
ガイドの説明を聞きながらトレイルを歩く。崖から落下したと思われる大小の石が転がり、その合間にこの地方特有の珍しい草木も生えている。
崖の上を見上げると、豆粒のように見える人たちが手を振っている。家内が、「うらやましい~っ!」。
リゾートエリアに戻り、「自前の弁当」を食べて、キャニオン・ウォーク組の帰ってくるのを待つ。我々より年配のご夫婦とお嬢さんの日本人3人組に出会った。頑張って崖の上を歩いてきたそうだ。

13時15分、エアーズ・ロックに戻る人達と別れて、バスはアリス・スプリングスへ向けて出発する。あと約320キロだ。
途中からオフ・ロードに入り、赤土のガタガタ道を驀進する。普通仕様の観光バスでオフ・ロードの道を走るなんて、いかにもオーストラリアらしい。対向車はめったに見かけない。カンガルーの死骸に鳥たちが群がっている。
緑の林が現れたと思ったら、迂回路の標識。何日か前の大雨でパルマー川 Palmar River が溢れ、道路が冠水したままらしい。バスは水溜りを避けながら、体を揺らして川を越える。しかし、久し振りに木の緑と川の水面を目にして、心が洗われるような気持ちを感じた。

100キロ以上のオフ・ロード走行を終えて、バスはようやくスチュアート・ハイウェイ Stuart HWY に入る。この道は南のアデレード方面から北のダーウィンへ、オーストラリアを南北に貫く幹線道路だ。
アリス・スプリングスまであと4、50キロという地点で、バスに急ブレーキがかかる。運転手の無線連絡を聞いていると、オイル系統の故障でオーバー・ヒート気味だと報告している。おいおい大丈夫かい?
そんなこんなで、1時間近く遅れてアリス・スプリングス到着。乗客それぞれが予約しているホテルまで送り届けてくれる。

2000/06/26

Ayersrock3

6月26日(月)
今日のツアーは14時半出発。午前中はのんびりと過ごす。
郵便局に行って、今まであちこちで買い込んだ土産品の一部を、神戸の家内の姉に送る。2、3日後に気が付いたのだが、ここで辞書を忘れてしまった。日本出発の前に買った三省堂の「デイリコンサイス英和・和英」。送り状に宛名を書いていたカウンターに置き忘れたらしい。3000円もしたのに。もったいない。

14時30分、オルガス&エアーズ・ロック・サンセット・ツアー Olgas & Ayers Rock Sunset Tour に出発。
エアーズ・ロックが一つの岩なのに対し、オルガスは36個の岩の寄せ集まり。バスが近づき、道がカーブするごとに、見る角度が変わり、いろな姿を見せてくれる。
【写真左】

最も高い岩、マウント・オルガが、地表綿からの高さ546m(海抜1069m)。ガイドは、「オルガは頭という意味。頭がたくさんあるからオルガス。」などと笑わせている。確かに、一つ一つの岩は頭に見えないこともない。オーストラリアの何かのCMでそんな絵を見たことがある。しかし、後で買ったガイド・ブックによれば、1872年、ヨーロッパ人で初めてこの岩山を発見したアーネスト・ジャイリース Arnest Giles が、当時のスペインの女王の名にちなんで、Olga と名づけたとある。ちなみにオルガスの北東部にある湖、アマデウス Amadeus は、やはりスペインの国王の名前である。

バスを降りて、オルガ渓谷 The Olga Gorge を歩く。ゴツゴツとした岩肌に挟まれた渓谷を、約1時間かけて往復する。
ウォーキング・トレイルの両側には、風化して崩れ落ちた大小の岩石がゴロゴロと転がっている。この奥が風の谷 The Valley of Wind。宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」は、ここをイメージして作られたという。
エアーズ・ロックとは、そのでき方も岩の地質学的材質もかなり違うようだ。

オルガスからエアーズ・ロック・サンセットのビュー・ポイントに向かう。
夕陽に映えるエアーズ・ロックはサンライズのそれよりも素晴らしいと、かねがね聞いていた。日が西に傾き始める頃から、徐々に岩肌が赤へ赤へと変わっていき、そして日の沈む瞬間に真っ赤に燃えるのだという。(左の写真のように。)
しかし、今日の西の空は曇天。どうも、パースの夕陽以来、サンセットには縁がなさそうだ。

2000/06/25

Ayersrock2

6月25日(日)

早朝、サンライズ&登坂&ベース・ツアー Ayers Rock Sunrize, Climb & Base Tour に出発。
出発は日の出の75分前。予約したツーは、すべて AATkings のバスが、ロッジの前まで迎えに来てくれる。
ビュー・ポイントに行き、日の出を待つ。日の出の前後、時間の経過とともに微妙に色を変えていくエアーズ・ロックを見る。
朝日が地平線から昇る瞬間、茶色だった岩は、赤く映える。歓声が上がる。

《エアーズ・ロックはどうしてできたのか? 「ウルルとカタジュタの地質学的歴史」
……詳しいことが知りたい方は、クリックしてみてください。……

次は、いよいよ登坂だ。西側に1ヶ所だけ設けられた登山口から登りはじめる。すぐに急な斜面になり、鎖が張られている。スニーカーを履き、持参したイボイボ付きの軍手を着けて、鎖につかまりながら一歩一歩登って行く。いやーっ、キツイ、キツイ。【写真右】
脚の弱った小生には最初から難関である。一緒に登っている若い人の中にも、同じようにヒーヒー言っている人がいるので、多少ホッとする。家内はどんどんと先に行く。
岩登りの必需品は、鎖をつかむ軍手と飲み水。暑い時期なら500mlくらいのペット・ボトルは絶対必要だ。
鎖が終わったところで、高さにして3分の2、道のりにしてまだ3分の1くらい。前を行く家内の姿はもう見えない。ここからが大変だった。高所恐怖症気味の小生にとっては、坂登りのきつさより、岩の馬の背のようなところが怖くて進めない。風が強く、時折り突風も吹く。しかし、ここでギブアップしたら、何を言われるか分からない。這うようにして前進する。
1時間ちょっと経ったところで、家内が下りてきた。頂上で折り返してきたのだという。ツアーでは上り下りに2時間しか取っていないので、残念だが、この辺で引き返さざるをえない。道のりにして80%か、90%か。情けない話だが、日頃、愛犬の散歩くらいしか歩かない運動不足の結果がこれである。
平気な顔をして歩いているツアーの同行者に頼み、家内と一緒に写真を撮ってもらって、下りの途についた。西方には、遥かオルガスが見える。他には何もない、まさに不毛の大地だ。

下に下りて、待っていたバスに乗る。ところが、チケットを見せて確認したつもりなのに、バスはベース・ツアーに行かずに、直接リゾートの方に戻ってしまう。こちらが聞き間違ったのか、それとも向こうが間違ったのか。そんなわけで、エアーズ・ロックの周囲を歩くベース・ツアーはあきらめた。

ビジター・センターで証明書 Ayers Rock Walkers Certificate の用紙を買い、一緒に登ったインド系の人にサインをしてもらった。

2000/06/24

Ayersrock1

6月24日(土)
朝5時半にタクシーを呼んでもらってパースの宿を出て空港に向かった。オーストラリア国内、最初で最後の飛行機の旅。
アンセット航空の British Aerospace BAe146 は、73人乗りのかわいい飛行機。エアーズ・ロックまでは2時間半のフライトである。2時間半といえば、羽田から飛べば沖縄を飛び越えてしまう距離だ。
到着直前、左の窓から赤茶けたまっ平らな大地の中にゴツゴツとした岩のかたまりが見えた。オルガスだ。思わず大きな声をあげてしまった。

11時、エアーズ・ロックの空の玄関、コネラン空港 Connellan Airport に到着。無料のエアポート・シャトル・バス Airport Shuttle Bus に乗ると、空港からエアーズ・ロック・リゾートの中を巡回して、自分の宿の前まで連れて行ってくれる。

エアーズ・ロック Ayers Rock (Uluru) は、オーストラリア大陸のほぼ真ん中にある世界最大級の一枚岩。周囲約9km、高さ348m(海抜は、867m)で、何もない平原の中にそびえる姿は、神々しさを感じさせるほどで、アボリジニの聖地となっている。その西約30kmには36個の岩からなるザ・オルガス The Olgas (Katatjuta) があって、この2つを含む地域が、ウルル・カタジュタ国立公園に指定されている。
エアーズ・ロック・リゾート Ayers Rock Resort は、エアーズ・ロック観光の拠点。5000人を収容できる宿泊施設やレストラン、ショッピング・センターなどがあり、各種のツアーがここから出ている。

我々の宿は、ツイン・ルームがある中では最低料金のスピニフェックス・ロッジ Spinifex Lodge 。それでも、我々にとっては今までの最高料金だ。それだけに、部屋にはキッチンとバルコニーが付いており、なかなかいける。トイレ、シャワーは共同。【写真右】
部屋で旅装を解き、3泊4日の作戦を練る。レストランで昼食の後、ビジター・センター Visitor Centre のツアー・デスクで、明日から3日間の AATKings のツアーを予約する。3つのツアーをばらばらに申し込んだら、それらのすべてが含まれているセット・ツアーの方がお得ですよ、と奨められた。なかなか親切。ここには、日本語の対応も可能なジャパン・デスク Japan Desk もあるのだが、たまたまスタッフが不在で、英語でのやり取りとなった。しかし、スタッフ嬢の AAT の発音が、何回聞いても 【aiaiti:】に聞こえる。これがオージー・イングリッシュなのだ。

夕方、ビールを仕入れようとしたが、近くにあるスーパーには置いていない。リゾートの中を突っ切る遊歩道を歩いて、反対側のホテルまで買出しに行く。

2000/06/23

«ピナクルズ Pinnacles のできるまで»

ナンバン国立公園の最も人気のある呼び物はピナクルズ砂漠だ。最高4mに達する何千本もの石灰岩の柱が、荒涼とした黄色い砂の風景の中に聳えている。あるものは先端がぎざぎざに尖った柱であり、またあるものは墓標に似た形をしている。ピナクルズとは一体何なのだろうか。どんな自然の作用が、これらの奇妙な目を見張るような構造物を造り上げたのだろうか。ピナクルズの石灰岩の原料は、豊富な海洋生物に溢れた昔の時代の、海の貝や甲殻類の殻である。これらの殻は石灰質を豊富に含んだ砂となり、風によって内陸に運ばれて、高い移動性の砂丘を形作った。冬の雨がこれらの砂から石灰質を浸出させ、砂丘のより下の方の層にある砂の粒を固めていった。植物が生えて砂丘は安定する。同時に、酸性を帯びた土や腐食質の層が、残された石英質の砂の上に形成されていった。この酸性土壌は(石灰質の)浸出作用を促進し、カルクリート(一般的に土壌の層の一部として形成される石灰質の固まり)の固い層が、下の方のより柔らかい石灰岩を覆う形で成長する。今日このカルクリートは、多くのピナクルの上に性質の違う笠のような形で見られ、下の柔らかい石灰岩を保護する役目を果たしている。カルクリートの層にひび割れが生じ、植物の根によってさらに広げられた。水はこのひび割れを通ってより深く浸透し、下の柔らかい石灰岩を溶かし去った。ひび割れによってできた通路は、徐々に石英質の砂によって埋められていった。この表面下の侵食は、最も弾性のある柱だけが残るまで続けられた。強い風によって覆っていた砂が吹き飛ばされ、今日我々が見ているようなピナクルズが現れたのである。

ピナクルズの形成

雨で砂から浸出した石灰質が、砂丘の下の層を柔らかい石灰岩に変えていく。

砂丘の上に生えた植物が、腐植土の酸性の層をつくり、柔らかい石灰岩の上に固い石灰岩のキャップが成長していく。

樹木の根によって、固い石灰岩の層に割れ目ができ、下の柔らかい石灰岩層の侵食はさらに続く。そうしてできた溝に石英質の砂が埋められていく。

植物が死に絶え、風が侵食された石灰岩の上を覆っていた砂を吹き飛ばし、ピナクルが現れる。

Perth4

6月23日(金)
今日は、ザ・ピナクルズ The Pinnacles に行く。パースまで来た目的の一つだ。
我々の泊まっているYHAのすぐ裏手のノースブリッジYHAの前から、7時30分に4WDトヨタのランクルで出発。運転手兼ガイドは、37歳のグレン君。日本語もほんのちょっと話せる。乗っているのは、我々2人だけだ。
車は北上してヤンチェプ国立公園 Yanchep NP にあるコアラ・パークへ向かう。乗客が2人しかいないので、あちこちで止まって詳しく説明してくれる。家内に通訳するのが大変だ。
途中、かの有名なカンガルーのロード・サインも発見。交通事故に遭ったカンガルーの死骸も見た。国立公園に入ると、林の中に野生のカンガルーがいる。エミューもいる。珍しいオーストラリア固有の植物についても説明してくれる。
コアラ・パークに着いて、身近にコアラを見る。ここは、西オーストラリアで一番のコアラの生息地だそうだ。但し、コアラの抱っこはできない。家内は、こっそり触らせてもらっていた。

コアラ・パークを出て、ブランド・ハイウェイ Brand Highway をさらに北上し、小さな漁村セバンテス Cervantes に着く。ここで昼食。入り口のBBQコーナーでは大きな肉を焼いていたが、それは我々の口には入らなかった。
セバンテスで、新たに5人乗ってくる。シンガポールからの新婚カップルがいた。
ナンバン国立公園 Nambung National Park に入り、4WDでしか入っていけないようなブッシュの生えたオフロードを走り、坂を登っていくと、突然広がる奇景。殺伐とした黄色みを帯びた砂丘の中に、無数の尖塔が林立する。ピナクルズ Pinnacles だ。「荒野の墓標」とは言いえて妙。感激して写真を撮りまくる。高さは、くるぶしくらいの小さなものから、4mを超える大きなものまでさまざま。
何故ここだけに、どうやってこんな風景が出来上がるのか。とても自然の造形とは思えない。

ピナクルズの感動覚めやらぬまま、車はさらに砂丘とブッシュ・トラックを走って南下する。インド洋が見えてきた。今度は、真っ白な砂丘。45度はあるんではないかという斜面を、フル・スピードで登ったり降りたり、坂の途中で急停車したり。車内に悲鳴と歓声が上がる。いやいや4WDは素晴らしい。若者が欲しがる気持ちが理解できた。

ランセリン Lancelin という漁村で、給油・給水の後、パースへの帰路につく。途中、インド洋に「沈みかける」夕陽を見ることができ、昨日果たせなかった願望を、ほんのちょっぴり果たす。
夕方7時頃、ノース・ブリッジ帰着。約12時間の素晴らしいツアーだった。

夜、例の場所でタバコを吸っていると、ゴルフ三昧のA氏が部屋からビールを出してきてご馳走になった。
明日は、飛行機でエアーズ・ロックへ飛ぶ。

2000/06/22

Perth3

6月22日(木)
今日はフリーマントルに行く日だが、その前に近くの西オーストラリア博物館 Western Australia Museum に寄る。
この博物館は、アボリジニ関係の展示物が豊富で、特に西オーストラリア地域の砂漠での生活を題材にした、独特のアボリジナル・アートが多い。玄関を入ったところには、25mくらいある巨大な鯨の骨がデンと置いてある。
また、検疫関係の展示コーナーがあり、何故検疫が必要なのか、州政府が如何に厳しい検疫体制をとっているかなどが、詳しく説明されている。

パース駅【写真左】から電車に乗ってフリーマントル Fremantle へ向かう。
スワン川がインド洋にそそぐ河口の街、フリーマントルに行き、その帰りにどこかのビーチで、インド洋に沈む夕陽を見る。それがパースへ来た目的の一つである。
電車は大変きれいな車両で、スピードも速い。車内に子供と学生向けの掲示がある。
"Children/Students must stand for adults or pay an adult fare."
「子供や学生は大人のために席を立ちなさい。もし座りたければ大人料金を払いなさい。」と。
学生たちは、ちゃんとこのマナーを守っているようだ。日本の高校生に見せてやりたい。
この電車には、ラッシュ時を除き自転車も持ち込める。25分でフリーマントルに到着。

フリーマントルは、1829年、キャプテン・フリーマントルの植民地宣言により始まった。活気ある港町で、修復された古い建物が立ち並ぶ、まるで映画のセットのような街だ。【写真右はフリーマントル駅】
アメリカ国籍以外で史上初のアメリカズ・カップ優勝を果たしたオーストラリアⅡ号は、フリーマントル港を母港とする船。1987年にはカップ防衛レースがフリーマントル沖のインド洋で開催された。その一大イベント開催に際し、何百万ドルもの費用を投じて、朽ちかけていた建物をを修復・復元したのだそうだ。

駅を出て、郵便局前のマーケット・ストリート Market St. を少し行くと、左手に短いモール High St. Mall があり、土産物屋やカフェが並んでいる。突き当たりが、キングス・スクエア Kings Square と呼ばれる一角。豪奢な時計台のあるタウン・ホールがある。
このタウン・ホールは、1887年、ビクトリア女王の戴冠50年を記念してオープンされたもので、遠くからも目に付く、フリーマントルのランド・マークとなっている。
ヘンダーソン・ストリート Henderson St. とサウス・テラス South Tce. の角にあるフリーマントル・マーケット Fremantle Market は、140以上もの露店が並び、食料品から骨董品まで、いろいろなものが売られている。西側を通るサウス・テラスは、「カプチーノ通」 "Cappuccino St." と呼ばれ、カフェがたくさん並ぶ。

空が気になる。夕陽が沈む西の空はどんよりと曇っており、晴れる様子もない。それでも、一縷の望みを抱いて駅に戻り、サンセットを求めてパース行きの電車に乗る。
この辺りのインド洋沿岸は、サンセット・コースト Sunset Coast と呼ばれ、美しい夕陽が望めるところ。やはり、「インド洋」というのが魅力である。なんとしても見たかった。
電車が走り始めると、とうとう小雨が降ってきた。残念だ。僅か4日のパース滞在。それもこちらは雨季。やはり無理だったのか……。もう一度絶対に来るぞ。そのまま、電車に乗りつづけ、パースに戻った。
もし天気なら、こんなきれいな写真が撮れたはずだったのだが……。

2000/06/21

Perth2

6月21日(水)

朝、ツアー・カウンターで、金曜日のピナクルズ・ツアーを予約する(1人$95、YHA会員割引あり)。
さすがに36時間の長旅は疲れた。今日は街の中をゆっくりする。

《ちなみに、ピナクルズのツアー会社は、TRAVELABOUT。》

パース Perth は西オーストラリア州の州都。西オーストラリア州の面積は、オーストラリア全土の3分の1を占め、鉱物資源もその3分の1を産出する。そのため独立心が強く、鼻っ柱が強い。
州の西南部に位置するパースは、人口約125万人。州の人口が170万余りだから、州のほとんどの人口がパースに集中している。というよりも、パース以外には、都市らしい都市が存在しないのが西オーストラリア州なのかも知れない。
しかし、スワン川 Swan River のほとりに開けたこの美しい街は、訪れた人を間違いなく魅了する。遠くから時間をかけてたどり着いても、絶対に後悔しない街だろう。


モールからもう1本南の通りはセント・ジョージズ・テラス St. George's Tce. 。この通りは、モール周辺とは打って変わって、高層ビルが立ち並ぶオフィス街。スーツ姿のビジネスマンが颯爽と歩いている。
オーストラリアに来て思ったことだが、どの街でも、ビジネスマンは男女を問わず、ほとんどの人が黒のスーツを着ている。流行なのか?そして、モールを歩く人と、黒いスーツの人では、歩くスピードが全然違うのである。
超高層街を過ぎると、目の前に悠々と流れるスワン川の流れと、広い芝生の緑が広がる。スワン川沿いは、フェリーの船着場 Barrack Square & Jetty を中心に広い公園になっていて、ここでもジョギングを楽しむ人がたくさんいる。
スワン川が極端に狭くなったところ Narrows にかかる橋を渡った先は、サウス・パース South Perth と呼ばれる地域。郊外の住宅地といったところだろう。
川沿いの芝生で、爽やかな川風に吹かれながら、のんびりとした時間を過ごした。
天候は不安定。晴れたり曇ったりしている。パースの6月は、比較的雨の多い時期という。明日の「インド洋サンセット」が心配になってきた。

YHAのスモーキング・エリアで、真っ黒な顔色をした日本人に会った。八王子からきているA氏。小生と同年代。仕事をやめ、パースへ来てゴルフ三昧の毎日を過ごし、3ヶ月になるそうだ。週に3、4ラウンド、周辺のゴルフ場はすべてプレイし尽くしたとおっしゃる。
A氏とは、タバコ友達として、毎晩ここで会うことになる。

2000/06/20

Perth1

6月20日(火)<着いた!>
夜7時頃、ようやくパースに到着。グレイハウンドのターミナルはシティから離れているため、車内で知り合った女性2人とタクシーに同乗して都心に向かう。彼女たちは、市内のコンドミニアムを予約しているとのこと。
我々の宿は、ブリタニア・インターナショナルYHA Britannia International YHA。シティ駅の北、4、5分のところにある。【写真左】
24時間オープンのレセプションには、予約の電話を入れた時日本語で応対してくれたKeith君がいた。Berlitz の大阪で1年半教師をやっていたそうで、阪神ファン(?)。ユース・ホステルは今回の旅で初めて泊まることになる。
シャワー、トイレは共同だが、キッチンは広く、インターネットも日本語OKだ。

隣りがレストランで助かった。窓から覗いて、他人が食べているのと同じものをオーダーして、遅い夕飯を済ませた。

Adelaide->Perth

6月20日(火)<まだバスの中>
夜が明けて、ノーズマン Norseman で朝食をとり、バスは、カルグーリー Kalgoorlie 、クールガーディー Coolgardie を抜ける。この辺りは、19世紀末金鉱が発見されてゴールド・ラッシュで沸いたところ。しかし、その金も僅か10年余りで掘り尽くされ、今では博物館や観光鉱山があるだけとなっている。
パースまで、もう少しだ。

Adelaide->Perth

6月19日(月)<バスの中>
朝9時にアデレードを発ち北上したバスは、昼過ぎポート・オーガスタ Port Augusta で最初のミール・ストップ。バスに同乗していた24、5歳の日本人女性2人と広島からの男の子と話を交わす。女性2人は、3年間働いて資金をため、1ヵ月半の予定で旅行中。ワーホリの広島君は、パースでとりあえず友達の宿に落ち着き、仕事を探して3ヶ月ほど滞在するそうだ。
バスは、ここから進路を変えて、ナラボー平原 Nullabor Plain をひたすら西へ向かって走る。北の方に湖らしきものが見える。塩が積み上げられているようだ。塩湖か?赤茶けた大地。地平線を望むこの風景は、いつまで走っても変わらない。
セデュナ Ceduna のモーテルのビュッフェで夕食休憩。ミール・ストップは、大体このようなモーテルかガソリン・スタンドに併設された小さなビュッフェやカフェが多い。従業員も少なく、バスが混んでいるとオーダーするのに時間がかかり、ゆっくり食べている暇がないこともある。弁当を持ち込んだ方が便利だ。日本なら、さしずめおにぎり弁当といったところだろう。
23時頃バスが止まると、西オーストラリア州の女性の検疫官が乗り込んできた。食品類(特に、フルーツ、野菜、蜂蜜など)を持っていたら出すように、と言う。アデレードで買ったリンゴとミカンを没収されてしまった。西オーストラリアは、遠く離れた『独立国』。聞きしに勝る検疫体制の厳しさだ。
州境を越え、時差調整のため、時計を1時間30分遅らせる。

2000/06/18

Adelaide2

6月18日(日)
朝食を食べたら、昨夜のウェルカム・ディナーを1食しか食べてないからと、1人分タダにしてくれた。
娘さんは、奥の作業場で台所に置く棚をつくる大工仕事。なかなかの "Good job!"、ご主人は建築士だそうだ。奥さんは壁や棚にペンキを塗っている。
亭主は、トランジット・センターへのお客さんの送迎が仕事か?非常にアット・ホームな宿である。
アデレードは、ノーザン・テリトリーのダーウィンへ向かう道路の起点にもなっており、アリス・スプリングスやエアーズ・ロックへ行く人など旅行者も多い。この宿の噂は口コミでも広まっているらしく、ワーホリの皆さんもたくさん利用している。
ただ、昨夜ダニにやられた。家内は何ともなかったが、小生、首筋が何箇所も腫れ上がり痒くてたまらない。みんなに聞いてみたら、他の部屋でもやられた人がいるらしい。
クイーンズ・ランドでバイク・ツアーのガイドをしている「髭のおじさん」が滞在していて、我々日本人に面白い話をして笑わせてくれる。かなり、助平な話が多かったが……。

今日は、アデレード・エクスプローラー Adeleide Explorer Tram で市内を巡る。レトロなトラムの形をしたバスで、キング・ウィリアム・ストーリートのランドル・モールの角を発車して、約3時間で戻ってくる(1人$25)。もちろん、一日乗り放題で、12ヶ所あるバス・ストップのどこからでも乗ることができる。
バスは、南下してビクトリア・スクエアを通り、イースト・テラスからノース・テラスと進む。トレンズ川を渡り、緑豊かな河畔の公園の中を抜けて、セント・ピーターズ・カテドラル St Peters Cathedral に着く。ステンド・グラスのきれいな教会だ。日本語のガイド・ブックも置いてあった。
ノース・アデレードの高級住宅地に入り、競馬で儲けた(馬主?)人が建てたという大邸宅の前を通る。
さらに、バスはシティの南西部を巡り、アンザック・ハイウェイ Anzac HWY を南西へ走って一路グレネルグ・シーサイド Glenelg Seaside に向かう。
午後1時頃、グレネルグの町に到着【写真左】。発車まで20分ある。ハンバーガーを買って海岸へ行くと、海沿いの堤防に腰掛けて食事をしている人がたくさんいる。餌をねだってカモメが寄ってくる。

明朝は、いよいよパースへ発つ日。市内に戻りぶらついた後、宿に帰って早めにやすむ。

2000/06/17

Adelaide1

6月17日(土)
7時30分、アデレードに到着。宿の迎えのワゴン車を見つける。Adelaide City Backpackers は、歩いてもわずか5分の距離。部屋は、玄関を入ってすぐ右側にあり、以前は小さなカフェかなにかに使われていたのか、面積はやたらに広い。ダブル、シングル、2段ベッドと、ベッドが5人分も置いてあって、どこでも好きなところに寝てください、という感じである。混んだ日にはドミトリーとして利用しているのかもしれない。
ここは奥さんと娘さんお手製の朝食が用意されている(1泊目のみ無料)。早速、パンとベーコン・エッグ、牛乳で空腹を満たした。

南オーストラリア州の州都アデレード Adelaide は人口が約107万人だが、シティはこじんまりとまとまった英国風の端正な街である。トレンズ川 Torrens River を挟んで南北に分かれ、南側は通りが碁盤の目のように整然と走り、どこに行くにも分かりやすい。北側のノース・アデレードは高級住宅地だ。
かって「教会の街」として有名だったアデレード。今でもその面影を充分に残しており、荘厳な教会があちこちに見られる。

宿を出て東へ少し歩くと、ビクトリア・スクェア Victoria Square がある。この広場は街の中心。真ん中にビクトリア女王の像が立っており、市民の憩いの場にもなっている。また、この広場はアデレードの交通の要にもなっていて、唯一残ったトラムの路線もここから出ている。

GPOとシティ・ホールを左右に見て、キング・ウィリアム・ストリート King William St. を北に進むと、銀行やオフィス、カフェやパブが並ぶ大通り。さらに進むと、右側に一番の繁華街、ランドル・モール Rundle Mall がある。デパートやスーパー、テイク・アウェイの店が並んでいて、週末は人が溢れている。例によって、うろうろと時間をつぶす。【写真左】

通りで面白いごみ箱を見つけた。豚がごみ箱を漁っている。なかなか、おしゃれだ。【写真下】


ランドル・モールを北に出るとノース・テラス North Terrace。通りに沿って続く並木と、博物館、美術館、アデレード大学などの重厚な感じの建物が並んでいる。<br/>南オーストラリア博物館 South Australia Museum 【写真右】は、オーストラリア一のアボリジニ・コレクションを誇る。アボリジニに関心のある人は必見だ。

夕食は、タイ料理の店で$15のクロコダイル・カレーに挑戦した。肉は白くて柔らかだったが、味はイマイチ。
なのに、宿へ戻るとウェルカム・ディナーとのことで、ステーキが待っている。もったいないので1人分だけご馳走になった。

今日、次の街パースの宿を予約するため、電話をかけた。例によって、'I'm sorry I can't speak English well.....' と始めたら、'Which language can you speak?' と訊いてくる。'Japanese.' と答えると、「日本語でどうぞ」と返ってきた。助かった。

2000/06/16

Melbourne4

6月16日(金)
今夜グレイハウンドでアデレードへ向かうため、チェック・アウトを済ませ荷物をトランジット・センターのロッカーに預ける。

メルボルンの最後に、無料のトラム、シティ・サークル City Circle に乗って時間をつぶすつもりで、エリザベス・ストリートの電停で待つ。
シティ・サークルはレンガ色の木製車両で、スペンサー・ストリート~フリンダース・ストリート~スプリング・ストリート~ラトルーブ・ストリート~スペンサー・ストリートというふうに、シティの中心部周囲を一巡している。料金は無料。このトラムで、行き残したところを回ってみようと思ったのだ。
しかし、待てど暮らせどレンガ色の電車がやって来ない。他の色は何本も通り抜けるのだが、何故かレンガ色だけが来ない。朝から風が強く寒い。
そうこうする内にグリーンの車両が止まり、乗務員が「乗れ」と手招く。よく分からないままに乗車すると、今日はシティ・サークルが車両点検のため休みなのだという。この車両でもタダでいいから乗っていろ、というのである。車掌ではなく、どうやら交通局(?)の職員が、臨時に乗り込んで対応しているようだ。
シティ・サークルのパンフレットに、『私は日本が好きです。メルボルンへようこそ』と日本語で書いて渡してくれた。

そのトラムを、カールトン・ガーデン Carlton Garden の前で降りる。王立展示館 Royal Exhibition Building の建物があったので入ってみる。1880年のメルボルン博覧会のために建てられた世界で最も古い国際展示場の一つ。中では、一部を仕切って衣料品関係のこじんまりした展示即売が行われていた。【写真右】
展示館の北側には、新しいメルボルン博物館 Melbourne Museum が工事中で、今年10月、7000㎡の展示スペースを持つ最新設備の博物館がオープンする。

スプリング・ストリートを南に向かうと、議事堂やオールド・トレジャリー(旧大蔵省) Old Tresury の前を通る。モールに入ろうとバーク・ストリートを右折する。
そこで何気なく見つけて入ったのが、アボリジナル・ギャラリー・オブ・ドリーミング Aboriginal Gallery of Dreamings だった。
アボリジナル・アーツの作品がたくさん展示されている。ゆっくりと眺めていると、日本語で話しかけてきた女性がいた。スタイル抜群、黒のパンツ・スーツが似合うとてもカッコいい女性だった。
内田真弓さん。日本の航空会社で6年間フライト・アテンダントとして勤務した後、オーストラリアを旅行で訪れて「アボリジナル・アーツ」に出会い、強く惹かれたという。すっかり病み付きになり何度かオーストラリアに来るうちに、今の店のオーナーに出会い、請われてこの店で勤めて8年になる。
『アボリジニの人たちのキャンプで、一緒に生活したこともあるんですよ』と話す内田さんの目が輝いている。つい一昨日、アボリジニ文化を日本に紹介するイベント企画が正式決定したそうで、その夜はひとりおいしい酒に酔いしれたという。7月にはこの店を辞め、ディレクターとして独立する予定だとか。成功を祈りたい。

その内田さんは、現在 LAND OF DREAMS を設立し、アボリジナル・アーツ・コーディネーターとして活躍されている。ホームページ「内田真弓の、裸足のアーティストに魅せられて」をご覧いただきたい。
バスのチェック・インまでにはまだまだ時間がある。昨日と同じスワントン・ストーリートのカフェに寄る。
ウェイターが覚えていてニコニコと応対してくれる。陽気なお兄ちゃんだ。

夜10時30分、バスは予定どおり発車しアデレードに向かう。

2000/06/15

Melbourne3

6月15日(木)
朝、ビクトリア・マーケットに行く。(昨日も行ってみたが、定休日だった。)
食料品店をまわり、夕飯の食材を求める。なんと、サーロインのステーキ肉が、キロ10ドル弱。迷わず400gのを2枚買う。日本円換算で500円ちょっとだ。安い! それに、ハム、パン、ポテト、オニオン、ブロッコリー、調味料などなど……。夕食が楽しみだ。
例のカフェ・テラスのある広場で、今日は3人のお嬢さんたちが、弦楽器を弾いていた。写真を取らせてくれというと、家内を入れて快く応じてくれた。
ホテルに戻って買出しの重い荷物を置き、再び街へ出る。

今日は、教会と公園を訪ねることにした。モールのあるバーク・ストリートを東に進み、スプリング・ストリート Spring St. を横切ると、州議事堂がある。その裏が、セント・ピーターズ教会 St. Peters Church とセント・パトリックス大聖堂 St. Patricks Cathedral 。【写真右】
セント・パトリックスは、尖塔の高さが105.8m、聖堂の奥行きが92.25mという巨大なゴシック建造物で、着工から90年かけて1939年に完成した。メルボルンのメインのローマン・カトリックの教会で、1970年には、パウロ6世によって、ローマの七聖堂に準じるマイナー・パシリカの地位が与えられているほどだ。
ちなみに、メルボルンは、中心街にも数多くの教会が点在しており、1891年建造のセント・ポールズ大聖堂をはじめとして、バプティスト教会、スコッチ教会、ユニティング教会など、数え上げればきりがない。

大聖堂を東に行くと、すぐフィッツロイ・ガーデン Fitzroy Garden に着く。メルボルンには450以上の公園があるというが、一番行きたかったのがこの公園。設計者は、イギリスのユニオン・ジャックを模してこの公園をレイアウトしたのだそうだ。そういえば、きれいな長方形である。
この中にあるキャプテン・クックの小屋 Captain Cook's Cottage は、キャプテン・クックの両親が住んでいたもので、メルボルン市が100周年を記念して1934年に買い取り、英国ヨークシャーからこの地に移設・復元された。【写真左】
チューダー様式のミニチュアの街、English Tudor Village もおもしろい。英国の地方の村が飢饉に見舞われたとき、その地方出身のメルボルン在住者が中心となって、食糧を贈るなどしてそれを助け、後日そのお礼として英国から市に贈られたもの……と掲示されたいた。

スワントン・ストリートのカフェでビールを飲んだり、モールをぶらついたりして、ホテルに戻る。

今日の夕食は豪勢だ。ホテルの共同キチンの使い古しのフライパンで、今朝仕入れたステーキ肉を焼く。同宿のみんなが、Wonderful! といって覗き込んでくる。
1人400gのサーロイン・ステーキ、塩ゆでポテト、ブロッコリー、オニオン炒めとレタスのサラダ。それにウィスキーの水割り。
食えるかなと心配したが、二人ともペロリと平らげてしまった。この超豪華メニューで、かかった費用は今までで最低。さすがにオーストラリアは肉が安い。
あーっ、うまかった!

2000/06/14

Melbourne2

6月14日(水)
HISに航空券を受け取りに行きがてら、今日も街の中ををうろうろする。
メルボルン・セントラルの手前を東に行くと、ビクトリア博物館 Museum of Victoria の建物があったが、改装工事のため休館中。

モールで人だかりがしている。何かと思えば、新発売のスープの無料試飲会。家内はちゃっかり列に並びおいしそうに飲んでいた。

HISの後、今日はスワントン・ストリートを南下して、フリンダー・ストリート駅 Flinders St. Station のそばを通って、ヤラ川 Yarra River を越えてみる。コンサート・ホール、ビクトリア・アーツ・センター、州立美術館などがあるサウス・バンク South Bank だ。
ヤラ川沿いのサウスゲート・ランディング・ショッピングセンター Southgate Landing Shopping-centre のプロムナードで、ハンバーガーを食べていると、食べ残しを狙ってスズメが集まってくる。この街の鳥はスズメなんだ。しかし、川沿いでちょっと寒い。
目の前には船着場があり、ヤラ川クルーズの遊覧船が発着している。この辺から眺めるCBDのスカイラインも素晴らしい。

今日のディナーは、チャイナ・タウンに行くことにした。メルボルンのチャイナ・タウンはオーストラリア最大の規模を誇る。
メルボルン出身のECCのJ君にお奨めの料理を訊いたとき教えてくれたのは、中華料理かイタリア料理。オーストラリア料理ってないの?と聞くと、笑って、"Nothing!" と答えた。そういえば、世にフランス料理やイタリア料理は有名だが、イギリス料理って、あまり見かけない。
チャイナ・タウンで入ったのは、「西湖飯店 West Lake Restaurant」。以前、中国の杭州で西湖を訪れたことがあり、そこの料理がおいしかったのを思い出したからだ。
オーダーを取りに来た支配人らしき人に、西湖がきれいだった(これは本当!)と話すと、嬉しそうに笑っていた。出てきた料理も、なかなかおいしかった。そして、デザートをサービスしてくれた。ごちそうさま!
ところで、このレストラン、テーブルに灰皿が置いてある。"Can I somoke here?" と、お得意のフレーズで尋ねると、"Yes." という。オーストラリアに来て、室内でタバコが吸えたのはここが初めてだ。

2000/06/13

Melbourne1

6月13日(火)
6時半、ほぼ定刻にメルボルン到着。ここの宿、トッド・ホール Toad Hall。バスターミナルからは歩いて1分少々。レセプションは開いていて、すぐにチェック・インできた。入り口のカエルのマークがかわいい。
シティの北のはずれだが、クイーン・ビクトリア・マーケットに近く、前のエリザベス・ストリート Elizabeth St. にはトラムの停留所もあって便利だ。但し、今回はバス・トイレは共用。

メルボルン Melbourne は、ビクトリア州の州都で、人口約320万人を擁するオーストラリア第2の都市。1927年キャンベラに移すまでは、オーストラリアの首都だった。1956年にはオリンピックも開催されている。
ビクトリア州人口の5人に1人は海外生まれ、つまり新移民だそうで、メルボルンには、ギリシャ系、イタリア系、ユーゴスラビア系など多彩な人種が目に付く。しかし、当時の女王の名前にちなんで名づけられた州名のとおり、オーストラリアで最もイギリス・ムードの強い土地柄でもある。

早速、クイーン・ビクトリア・マーケット Queen Victoria Market 【写真左】に行ってみた。ここは、100年以上もの間市民に親しまれてきたマーケットで、肉類、魚介類などの生鮮食料品から、衣料、おもちゃまで、ありとあらゆるものが売られている。家内のブーツを買い、インド系の主人の時計屋で時計の電池を入れてもらった。
カフェ・テラスの並ぶ広場では、いろいろなパーフォーマンスも見られ、アボリジニの楽器ディジェリドゥーの演奏を初めて聞いた。

エリザベス・ストリートを都心に向かうと、左側に、メルボルン・セントラル Melbourne Central と呼ばれる大ショッピング・センターがあり、大丸と150を超える専門店やレストランが入っている。ここの大丸さんは、シドニーの高島屋とは違い、本格的なデパートである。
建物は黒川紀章の設計によるもので、敷地は2ブロックにまたがり、デッキで繋がっている。円錐形の屋根の下は吹き抜けになっていて、中にはレンガ造りのショット・タワーが立っている。さらに、南のブロックのマイヤーともデッキで結ばれ、なんと3ブロックにおよぶ巨大なショッピング・コンプレックスだ。【写真右】
《メルボルン大丸は、2002年7月末に閉店。11年間の営業に終止符を打った。》

メルボルンのメイン・ストリートは、南北方向のエリザベス・ストリート、スワンストン・ストリート Swanston St. と、東西方向のバーク・ストリート Bourke St. 、コリンズ・ストリート Collins St. の4本。エリザベス・ストリートとスワントン・ストリートとの間のバーク・ストリートが、モールになっており、ここのモールは真ん中にトラムが走っている。

コリンズ・ストリートのHISに寄り、パースからエアーズ・ロックへの航空券を買い、エアーズ・ロックのホテルの予約を依頼する。
店に入って、"Does anyone speak Japanese?" と、尋ねようとしたら、数人のスタッフは全部日本人だった。

夜、チャイナ・タウンの一角にある「居酒屋・忠治」で一杯やる。すべて日本の居酒屋メニューで、値段も日本並み。ということは、オーストラリアでは高いということ。

2000/06/12

Sydney5

6月12日(月)
昨日からの雨が残った。雲の流れが速く、ざーっと来たかと思うと青空がのぞく。変な天気だ。
今日の夕方シドニーを発つので、荷物をまとめてタクシーでセントラル・ステーションへ向かう。考えてみれば、タクシーに乗るのは、オーストラリアに来てこれで2度目だ。別にタクシー代をケチっているわけではないのだが……。
ロッカーへ荷物を預け、セントラル・ステーションでYさんと会う。Yさんは、昨年2月にオージーと結婚されてこちらに住んでいる。マーケット・シティでコーヒーと軽食をご一緒する。
雨は相変わらず降ったりやんだり。Yさんと別れ、近くのチャイナタウン辺りををうろうろして時間をつぶす。
午後7時、メルボルンへ向けてグレイハウンドが発車した。シドニーの街は広く、4泊5日でも時間が足りない。またやって来なければ……。

2000/06/11

Sydney4

6月11日(日)
昨日夜の雨は上がって薄曇り。雲行きは怪しいが、今日は、一日乗り放題のシドニー・エクスプローラー Sydney Explorer に乗る。
シドニー・エクスプローラーは、市内24ヶ所の主要観光ポイントを巡る、赤い色の観光バスで、各ポイントのバス停では一日何度でも乗り降り自由。1番スポットのサーキュラ・キー Cercular Quay を、朝8時40分から夕方5時25分まで17分おきに発車する。気に入った場所で好きなだけ時間を過ごし、次のポイントに向かう。チケット(大人$30)は運転手からでも買えるから、どこから乗り始めてもいい。

我々は、ジョージ・ストリートのQVBの前(No.14)から乗車。バスは、ハイド・パーク、オーストラリア博物館、セントラル・ステーション、チャイナ・タウンと、見慣れた通りを走る。この辺はもっぱら車窓からの見物だ。
さらに、シドニー・カジノのあるスター・シティで折り返し、ダーリン・ハーバー Darling Harbour を経てヒクソン・ロード Hickson Rd. を北上。23番のキャンベルズ・コーブ Campbell's Cove で下車する。ここは、ハーバー・ブリッジ Harbour Bridge の南の橋脚の下にあたり、公園になっている。ブリッジを下から見上げる形になる。
シドニーのシンボルになっているこの橋は、1923年、当時の不況対策の公共事業として着工、9年間かけて完成した。延長1149mで、シングル・アーチ橋としては世界第2の長さ。海面から最高部までは134mある。
また、ここからは、シドニー・コーブ Sydney Cove を挟んで、対岸のオペラ・ハウスを昨日とは逆のアングルで見ることができる。

そのまま歩いて、ザ・ロックス The Rocks に入る。ザ・ロックス The Rocks は、白人オーストラリアの発祥の地と呼ばれるエリア。1788年、イギリスからの最初の移民団がシドニー・ハーバーに入港、ここに初めて開拓の鍬が入れられたという。その名のとおり、ここは岩だらけの地質だった。【写真右】
現在は、入植、開拓当時の倉庫や、住宅街を昔の面影そのままに再建、再現し、一大観光地として賑わっている。ジョージ・ストリート沿いにあるシドニー・ビジター・センター Sydney Visitor Centre は、船乗り用の下宿屋の建物を再建したもので、館内にはザ・ロックスの歴史が紹介されている。ここで、シドニーの絵葉書を買った。

再びバスに乗り、サーキュラ・キーでちょっと下車。ここは、シドニーの海の玄関口。5本の桟橋からフェリーやクルーズの船が発着している。バスはオペラ・ハウスに寄り、マックォーリー・ストリート Macquarie St. を南下する。この通り、ハイド・パークの北側には、州立図書館、州議事堂、旧造幣局などの歴史的建造物が並ぶ。向きを変えて、ボタニック・ガーデンの中を通り、例の北端のビュー・ポイントで折り返す。この辺から小雨が降り出した。

ハード・ロック・カフェ Hard Rock Cafe のあるウィリアム・ストリート William St. を東に向かうと、「南半球最大の歓楽街」といわれるキングス・クロス Kings Cross。しかし、雨が降っているのでそのまま素通りする。昼なので、車窓からはその賑やかさは伝わってこない。
バスは、ポッツ・ポイント Potts Point 、ウルムルー Woolloomooloo を通過し、シドニー・ハーバー・トンネル Harbour Tunnel を抜け、ノース・シドニーに入って折り返し、ハーバー・ブリッジを北から南へ渡って見せる。小憎らしいほどの演出である。ようやく、出発点のジョージ・ストリートに戻ってきた。

ピット・ストリートのインターネット・カフェで、久し振りにメールを送受信。ここでカメラを置き忘れ、慌てて引き返して無事この手に戻った。ああ、良かった!
宿への帰り道、雨は本降りになった。
夜、ECCのクラス・メイトCさんに紹介され何度かメールを交換していた、シドニー在住のYさんから電話をいただく。明日お目にかかれる。

2000/06/10

Sydney3

6月10日(土)
また歩いた。今日はシドニーの政治、経済の中心、いわゆるCBD Central Business District を歩いてみる。
CBDは、南のタウン・ホールから北のサーキュラ・キー Circular Quay に至る、ピット・ストリート Pitt St. とジョージ・ストリート George St. の辺りをいう。タウン・ホールからマーチン・プレース Martin Place までは、ホテル、デパート、オフィス・ビルなどの建物がびっしりと並ぶ。建物の1、2階には、免税店、お土産品店、有名ブランド店などのショッピング施設やレストランやフード・コート、カフェなどが入っていて、通りは行き交う人で溢れている。
ハイテク・ビルが並ぶ中に、ところどころにビクトリア調の古い建物も残っており、そんなミスマッチが面白い。古い建物では、ビクトリア・バロック風の、時計台のあるタウン・ホールと、すぐ近くの、ジョージ・ストリートにあるクイーン・ビクトリア・ビルディング(QVB) Queen Victoria Building 【写真左、内部】が見どころだろう。どちらも19世紀後半に建てられたものだが、QVBの方は、老朽化していたものを1984年から2年半をかけて大改修を行い、現在200を超す小売店やレストランが入っている。

GPOのあるマーチン・プレースは歩行者天国になっているが、カフェ・テラスが並んでいるわけでもなく、週末は閑散としていて、ちょっと寂しい。
マーチン・プレースからサーキュラ・キーまでの北側は、南半分とはいくぶん趣が異なり、超高層ビルが立ち並んで、ノース・シドニーやオペラ・ハウスの方から眺める景色のスカイ・ラインを形成している。

マーケット・ストリート Market St. を西に歩いたところで、高島屋を見つけ入ってみた。
デパートではなく、高級土産品店といった店づくり。スタッフは全部日本人のようだ。次女の誕生日プレゼントにと、ユーカリの葉をかたどったブローチを買ったが、皇太子妃雅子様がそのブローチをつけて写っている日本の週刊誌の切抜きをショー・ウィンドウにおいて、「雅子さまもお使いの……」とやっていたのには、いささか驚いた。

帰りに、フード・コートで、夕食の仕入れ。酢豚、牛、チャーハン、それに寿司、しめて12ドル。宿の近くのリカー・ショップで、安いスコッチを買い込んだ($22)。
夜、長女から電話がかかる。愛犬『寧夢』は元気にしているようだ。
雨になった。オーストラリアに来て初めての雨だ。

2000/06/09

Sydney2

6月9日(金)
今日は、あのオペラ・ハウス Opera House に向かう。ハイド・パーク Hyde Park の園内を抜け、マックァリー・ストリート Macquarie St. から王立植物園 Royal Botanic Garden に入る。 園内には4000種以上の植物が世界中から集められ、池や噴水の間に美しくレイアウトされている。
びっしりと芝生が敷き詰められ、ジョガーが走っている。行く先々の街で鳥と戯れたが、海に面したこの街はカモメだ。
オペラ・ハウスのビュー・ポイントを探しながら園内を散策する。絵葉書で見慣れたオペラ・ハウスとハーバー・ブリッジを並べて捉えたあのアングルは、北端の Mrs. Macquaries Chair からのものだった。
しかし、残念なことに、昼を過ぎてしまったため陽が西に傾き始め、すべて逆光。コンパクト・カメラでは如何ともし難い。これから行かれる方は、午前中に、そして長いレンズ・フード付きのカメラで狙うようお奨めする。

海べりを通ってオペラ・ハウスに近づき、建物の周りをまわる。デンマークの建築家ジョーン・ウッツォン Jorn Utzon の設計になるもので、シドニー湾を疾走するヨットの帆をイメージしている。工事の遅れで、着工以来14年を要して1973年にようやく完成した。なんと、真っ白く見えていた屋根はタイル張り(?)で、目地が切れている。大発見?! 日本からのツアーの団体さんがいた。スーツとコートに身を包んだ、我々とは段違いにリッチな旅人たちだ。

再びハイド・パークを抜けて宿まで歩いて帰った。
シドニーはさすがに大きな街で、道のりは遠い。そして寒い。家内の機嫌がだんだん悪くなる。考えてみれば、朝から歩きどおしだった。それに、道に迷った昨日のこともある。

2000/06/08

Sydney1

6月8日(木)
シドニー到着直前、バスは通勤ラッシュの渋滞にかかり、のろのろ運転。ハーバー・ブリッジをゆっくりと渡る。定刻よりちょっと遅れて8時20分セントラル駅 Central Station のバスターミナルに着く。
シドニー Sydney は人口約375万人、いわずと知れたオーストラリア最大の都市、ニュー・サウス・ウェールズ New South Wales の州都である。3ヵ月後にオリンピックを控え、いたるところに "Sydney 2000" の飾り付けが溢れている。

近いはずの宿が思ったより遠い。坂道を、重い荷物を背負って、道に迷って尋ね歩きながら、15分以上かかってようやくたどり着く。
クラウン・シティ・ロッジ Crown City Lodge は、オージーと日本人の奥さんがオーナー。奥さんのお姉さんも一緒に働いている。掃除やベッド・メイキングもワーホリで働く日本人の青年だ。我々の泊まった部屋にはキッチンとバルコニーが付いており、タバコを吸うためにわざわざ部屋の外に出る必要がない。ダイヤル・インの電話が付いていた。
(この宿は、残念ながら2001年中頃、看板を下ろしてしまった。ご夫妻は今ではゴールド・コーストに拠を移し、ホリデー・アパートを経営されているそうだ。)

旅装を解き、12日のメルボルン行きのバスの booking のため、再びセントラル・ステーションへ。道が分かってしまうと駅までは意外に近い。近くのシドニー・セントラルYHAの1階にあるビュッフェで昼食休憩。
歩いている人は中国系の人がやたらに多い。それにしても、どこの街に行っても中国人のバイタリティには驚かされる。
マーケット・シティ Market City 【写真右】に行く。スーパー・マーケット、レストランやフード・コートのほか、国際色豊かなブティックが入っている。1階はパディーズ・マーケット Paddy's Market で、ガイド・ブックには金、土、日のみ営業と書いてあったが、何故か開いていた。広いフロアに800を超える露店が所狭しと並び、値段は格安で、生鮮食料品、衣料品から土産品、電気製品まで、何でも売っている。家内は、ウォン・バットの小物を見つけ買って帰った。
シドニーのチャイナタウンは、この近くの二つの門に挟まれたディクソン・モール Dixon Mall を中心に広がっている。中華料理だけでなく、日本、タイ、マレーシアなど、アジア各国のレストランが軒を連ねている。
宿の近くで、Woolworth を見つけ、食材を買い込んだ。

2000/06/07

Brisbane_4

6月7日(水)
出発は夕方なので、朝、宿をチェック・アウトして、トランジット・センターのロッカーに荷物を預ける。ここのロッカーは、コインを入れるとカードが発行され、開ける時にはそのカードを差し込む方式。
シティ・ホールに行き写真をとったりしていると、キング・ジョージ・スクエアが賑やかになった、と思ったら、車に引かれた大きなオルガンがやってきた。穴のたくさん開いた円盤をセットして自動演奏する奴だ。しばし音色に聞きほれていると、向こうから見覚えのある男性が近づいてくる。泊まった宿の地下のレストランの支配人である。
これからシドニーに向かうんだというと、ハーバー・ブリッジの上を歩くツアーがあるから、是非参加しなさいと勧めてくれた。

例によって、モールで食事をしたりコーヒーを飲んだりして、ブリスベンの最後をゆっくりと過ごす。夕食用に巻き寿司を買う。
15時過ぎにトランジット・センターに戻り、チェック・イン。16時30分、定刻に発車。今日のバスは結構混んでいる。シドニーまで1000キロ余り、16時間半の旅が始まった。
バスが、南下しているパシフィック・ハイウェイ Pacific HWY をそれ東へ向かっている。18時頃着いたところがサーファーズ・パラダイス Surfers Paradise のターミナル。「ああ、ここがあのゴールド・コースト Gold Coast なんだな」と思う。今回の旅ではまったくお呼びじゃなかったが、今度ブリスベンに来るときにはちょっと寄ってみよう。

ブリスベンはすばらしい街だった。また来たい。住みたい。絶対来るぞ!
我々夫婦は、このブリスベンに、"Our Favorite City" の称号を贈ることにした。