2000/08/10

アンザック・ビスケット ANZAC Biscuit

オーストラリアには、アンザック・ビスケット "ANZAC Biscuit" というクッキーがあり、ベジマイト Vegemite やあの巨大なオージー・バーベキューと同様に、オーストラリアを代表する食べ物となっている。
アンザック・デーにはそれそれの家庭のレシピで焼かれて家族やパーティーで楽しまれ、また、在郷軍人組織の資金集めの手段としてバザーなどで売られる。
最近ではスーパーや菓子店などでも1年中売られていて、我々旅人も目にし口にすることができる。

小生、クッキーを焼けるわけではない(焼いたこともない)が、現在最も一般的なレシピと作り方を紹介しておこう。

材料(30個分)
  • 小麦粉、砂糖、押しからす麦、ココナッツ 各1カップ
  • バター 4オンス
  • 糖蜜またはゴールデンシロップ 1テーブルスプーン
  • 熱湯 2テーブルスプーン
  • 炭酸ソーダ 1テーブルスプーン
  • 塩 1摘み
作り方
  1. あらかじめオーブンを175度に熱し、クッキーシートに油をひいておく
  2. 小麦粉、砂糖、押しからす麦、ココナッツ、炭酸ソーダ、塩を、大きなボールでよくかき混ぜる
  3. 別のボールでバターを溶かし、シロップとお湯を加える
  4. 3を2に注ぎ、スプーンでよくかき混ぜこねる
  5. こねたものをスプーンですくってクッキーシートに並べる
  6. オーブンに入れ、12~15分焼く
  7. 焼けたクッキーを取り出し、約10分間冷ます

◆アンザック・ビスケットの起源
さて、アンザック・ビスケットの起源は?となると、いくつかの説があるようだが、いろいろと聞きかじった話を紹介しよう。

アンザック・ビスケットは、スコットランドのオートケーキ Oatcakes に由来するというのが通説。
スコットランドからの移民は、これをパンと同様に肉やチーズあるいはジャムと共に朝食や昼食に供していた。
19世紀中頃の古いレシピでは、砂糖もココナッツも使っていない(使いたくても使えなかったようだ。)。
1890年代になると、砂糖やシロップがたまに加えられるようになり、オートケーキは時おりビスケットとして供された。1910年頃には、ココナッツ、卵、ミルクなどの他の材料が加えられるようになる。

◆兵隊さんのビスケット
第一次世界大戦が始まり、兵士を戦地に送り出したオーストラリアやニュージーランドの妻、母親、ガールフレンド達は、男達の食べ物の栄養を心配していた。できるだけ栄養価の高いものを持たせてやりたい、送ってやりたいと考えていた。
ただし、一つの問題があった。彼女達が兵士達に送る食べ物は、すべて商船で戦地まで送られる。そのスピードは約10ノット。ほとんどの船は冷蔵設備を持っていなかったから、2ヶ月を超える輸送期間の後でも安全においしく食べられるものでなければならない。
婦人達が出した結論は、可能な限りの栄養価を含んだビスケットだった。彼らが使った材料は、押しからす麦、砂糖、小麦粉、ココナッツ、バター、ゴールデン・シロップまたは糖蜜、重炭酸ソーダ。
興味ある事実は、当時のアンザック・ビスケットの材料にミルクや卵が含まれていなかったことである。理由の一つは、ミルクや卵のような腐りやすい材料を使えなかったこと。もう一つの理由は、養鶏農場のほとんどの男達が戦争に参加したため、卵が不足していたことだったという。

最初、このビスケットは「兵隊さんのビスケット」 "Soldiers' Biscuits" と呼ばれたが、ガリポリ上陸作戦の後、一般的に「アンザック・ビスケット」 "ANZAC Biscuits" と呼ばれるようになった。

一方、赤十字などの慈善団体は、ガーデン・パーティや屋台などでアンザック・ビスケットを売って兵士を送り出すための資金を集めた。数人の女性が屋台でビスケットを売っている当時の写真が残されており、ビスケットの皿に "ANZAC Biscuits" と記されているのが読めるそうだ。

銃後の留守家族が心をこめて作ったアンザック・ビスケットは、以上のようなものだったが、政府が製造して兵士達に支給したものは、「軍隊ビスケット」(ANZAC Wafer または ANZAC Tile としても知られている)と呼ばれ、本質的にはパンの代わりをする貯蔵寿命の長い「乾パン」だったという話もある。
パンともアンザック・ビスケットとも違って、このビスケットはものすごく堅く、兵士はこれを粉にして水と砂糖を加えて「かゆ」にして食べていたものもいたそうだ。
当時、アンザックと一緒に戦った他国の兵士達の間では、これがアンザック・ビスケットだと考えられていた。
ちなみに、この種のお菓子、米語では cookie,cooky、イギリス英語では biscuit と呼ばれるが、英語の biscuit には、「乾パン」の意味がある。

起源はともあれ、現在作られているものはあくまでもクッキーであり、外側はカリカリっとして、中身はしっとり感のある結構おいしいお菓子である。

アンザック ANZAC

オーストラリアを歩いていると、あちこちで「アンザック」 "ANZAC" という言葉に出会う。
Anzac Memorial、Anzac Park、Anzac Hill、そして Anzac Day などなど。

ANZAC (Australia and New Zealand Army Corps) 。それは第一次世界大戦時に結成されたオーストラリア・ニュージーランド連合軍のことを指す。アンザック軍団は大英帝国軍の一員としてヨーロッパの戦いに参加し、ある時は多大な犠牲を払い、ある時は勇敢な戦いで見事な戦果をあげた。
この参戦は、独立間もないオーストラリア連邦が初めて国際社会に登場するきっかけとなり、戦後オーストラリアは国際連盟への加盟を果たすこととなった。

◇第一次世界大戦の勃発とオーストラリアの参戦
1914年、ヨーロッパでは、ますます強さを増したドイツ帝国と英・仏・露同盟間の対立は一触即発の状況にあった。ドイツは8月1日対ロシア、3日対フランスに宣戦を布告し、これに対抗してイギリスも4日ドイツに対し宣戦を布告した。この宣戦布告は大英帝国全体を含むものだった。
オーストラリアの首相ジョセフ・クック Joseph Cook は、「祖国が戦うなら我々も」 "If the Old Country is at war, so are we" と宣言。オーストラリアは選挙運動の真っ最中だったが、野党党首アンドリュー・フィッシャー Andrew Fisher は大英帝国に「最後の一人、最後の1シリングまで」ドイツと戦うことを約束し、首相は「我々の義務は明らか。腰を固め、我々が英国人であることを思い出そう」と応じた。

カナダは3万人を送ると申し出、オーストラリアは2万人を約束した。ニュージーランドは既に兵員の訓練を始めていた。1個師団の歩兵部隊しか常備軍を持っていなかったオーストラリアは、志願兵による新しい軍隊、オーストラリア帝国軍 the Australian Imperial Force (the AIF) を結成することを決め、宣戦布告の数日後には募集を開始した。

当時ほとんどの人々は、開戦を歓喜をもって迎えた。戦争はクリスマスまでに終結するだろうと考え、男達は冒険と興奮に乗り遅れまいと兵員募集センターに殺到する。
募集資格に達していない若い人達も年令を偽って応募し、そのほとんどが受け入れられた。1ヶ月余りの間、主要都市では応募を奨励するための行進が行なわれた。【写真上】
彼らは「1日6シリングの旅行者」 "six bob a day tourists" と呼ばれた。何故なら、当時としては給料は高く、ほとんどがイギリスの陸海軍がドイツをやっつけて戦争はすぐに終わると考えていたのである。

◇軍団の結成
10月後半、集められた兵士達を乗せた船団は、スエズ運河経由でヨーロッパに向った。途中、ニュージーランド軍と合流してアンザック軍団を結成する。しかし、アンザック軍団は一旦エジプトに上陸、ピラミッドの近くに野営して厳しい訓練を受けることになった。
あまり知られていないが、1902年に締結された日英同盟に基づき、イギリス政府の要請を受けた日本の艦隊がアンザック軍団護送の護衛に当たった。アンザック軍の補充は休戦の日まで続けられ、日本艦隊も最後までオーストラリア・スエズ間の護衛に従事した。

◇ガリポリ上陸作戦

東部戦線でドイツと戦っていたロシアは、ロシアへの圧力を軽減するためトルコを叩くようイギリスとフランスに要請する。イギリスのキッチナー将軍 Kitchener Herbert は、ロシアへの補給路確保も兼ねてダーダネルス海峡への攻撃を提案、この結果、エジプトでの訓練を終えて英仏軍に合流したアンザック軍団は、ガリポリ半島での恐ろしい砲火の洗礼を浴びることになる。

イギリス軍の現地指揮官ハミルトン卿 Sir Ian Hamilton は、トルコ軍の兵力は僅か4万人であり、ガリポリの上陸作戦は容易に完了すると予測していた。
ハミルトンは全部隊を3分割し、イギリス本国部隊は最南端から北上、フランス軍は陽動作戦で対岸のアジア側に上陸しすぐ撤退、アンザック軍はやや北西の離れた地点に上陸し本体の到着を待つ、という機能をもたせた。

◇アンザック入江の悲劇
1915年4月25日未明、上陸作戦が開始された。アンザック軍は当初予定のガバテペに向かったが潮流に押されやや北の名前のない入り江に上陸した。ここはその後アンザック入江 Anzac cove と呼ばれるようになる。【写真左】
アンザック軍団は、いばらに覆われた岩だらけの高地を超えてほんの少し前進した。
しかしトルコ軍の遠方からの砲撃は徐々に照準が合い、海岸の上陸地点に命中しはじめ、後続の兵は被害を受けつつあった。高地にあがった兵も、時折飛来する狙撃兵の銃弾に身を隠すだけで、何をしたらよいか見当がつかなかった。
6、7月、アンザック入江では海岸から直立するアナファルタ丘陵の南部に連なるサリバイール・リッジの攻防が行われた。いずれも数百ヤードの取り合いに終始し、その戦力は死傷者と病人で消耗しつつあった。一方その間もトルコ軍は戦力の増強が可能だった。

8月6日、連合軍は再び攻勢に出た。アンザック入江ではニュージーランド部隊が好調に進み、遂にサリバイール・リッジ中最高峰の一つ、しゃくなげ高地に達した。そこから見るダーダネルス海峡の狭隘部は絶景でかつ360度の視界が利いた。しかし出発地点を見下ろすと、トルコ軍の反撃でオーストラリア兵の死体が折り重なっているのが見えた。頂上にいても増援が期待できず、僅か3時間で北方に撤退した。実はこれがイギリス軍の最大進出線で、再びダーダネルス海峡狭隘部を陸上から目視することはできなかった。

◇敗北と撤退
8月10日、トルコ軍の猛反撃が始まり、しゃくなげ高地周辺で孤立していたアンザック軍もさすがに持ちこたえることができなかった。戦闘は23日まで続いたがイギリス軍は結局2万人に及ぶ戦死傷者を出し海浜部に閉じ込められた。この他に2万2千人が赤痢・チフスに倒れ、エジプトのアレクサンドリアは負傷者と病人で埋まったという。
ガリポリ作戦の失敗は明らかとなった。オーストラリアの若いジャーナリスト、キース・マードック Keith Murdoch は、極秘裏にダーダネルスの損害の規模についてオーストラリアの首相に書き送った。それはイギリスの首相デビッド・ロイド・ジョージに伝えられ、ハミルトン卿は更迭された。

イギリス政府は遂に撤退を命じた。1915年12月20日、アンザックの空になった塹壕に攻撃を続けるトルコ軍に気づかれることなく、撤退は完了した。1916年1月6日、ガリポリへの最後の攻撃を実行したトルコ軍は、アンザック軍の全軍が一人の犠牲者も出さずに撤退してしまっていることに気がつく。その撤退は、皮肉にも連合国のガリポリにおける作戦の中で最も成功した作戦だった。

◇大きすぎた犠牲
イギリスはガリポリの戦いに46万8千の兵士を送りこみ、33512名の死者、7636名の行方不明者、78000名の負傷者を出した。うち、アンザック軍団は、ガリポリで8000人を失い、18000人以上が負傷した。
オーストラリアの当時の人口は約5百万人。第一次大戦に33万人が出兵し、59000人が戦死した。
人口百万人のニュージーランドは、兵士11万人のうち18000人が戦死し、55000人が負傷した。このニュージーランドの死傷者率62%は、アングロ・サクソン世界からの参戦国の中で最も高い数字である。

アンザック軍団はその後、パレスチナとフランスの西部戦線に送られる。
1918年、西部戦線のフランス、ル・ハメル Le Hamel の戦いでは、大きな戦功をあげた。この時のアンザック軍団の指揮官が、100ドル札の裏に描かれているジョン・モナシュ卿 Sir John Monash である。

オーストラリアでは、ガリポリ半島に上陸を開始した4月25日をアンザック・デー Anzac day として祝日にしている。この日には、第一次世界大戦だけでなく、これまでのすべての戦争における戦死者の霊が弔われ、世界平和への祈りが捧げられる。

2000/07/30

もう一つの鉄道(サトウキビ鉄道)

ケアンズからバスでブリスベンに向かう途中、ハイウェイに並行して走る線路を見た。
最初は普通の鉄道の線路だろうと思っていたが、どう見ても線路の幅が狭く感じる。1メートルもない感じなのである。その線路が道路を斜めに横切っている踏み切りもあったが、やはりその線路の幅員は数10センチしかない。いわゆるトロッコの線路なのである。

何時間か走ったところで、その線路を籠のような貨車の長い列がディーゼル機関車に引かれて行くのを見ることができた。貨車に積まれているのはサトウキビ。確かに、この沿線にはサトウキビ畑が延々と続く。なるほどこの列車は、サトウキビ畑から製糖工場へキビを運ぶ鉄道だったのだ。それにしてもこの鉄道の延長は長い。朝ケアンズを出てから暗くなるまで、ハイウェイの右に左にと延々と見えていた。
子供の頃、サトウキビは大分の田舎でも植えていたので、よくかじったことがある。沖縄でかなり大きなサトウキビ畑を見たこともあるが、さすがにここオーストラリアでは、スケールの違いを感じる。

帰ってきてから調べてみたら、この鉄道の総延長はクイーンズランド州で4000kmにも及ぶそうである。折角だから、この『サトウキビ鉄道』についてご紹介しておこうと思う。

◆世界第2位の砂糖生産国

オーストラリアはブラジルに次ぐ世界第2位の砂糖生産国で、サトウキビの作付け面積は約41万ヘクタール。年間約490万トン(数字はいずれも98/99年度)の粗糖が生産され、その95%がここクイーンズランドで作られる。
サトウキビ畑はほとんどが南太平洋沿岸に沿って分布しており、その作付エリアには、現在23の製糖工場が、南のナンバー Nambour から北のモスマン Mossman まで、1750kmにわたって点在する。

クイーンズランド産の約8割は輸出用(他州はほとんどが国内消費用)で、砂糖産業のクイーンズランド州経済に占める地位は大きい。日本には年間60万トン程度の粗糖が輸出されていて、アメリカに次ぐ第2位の輸出先となっている。

◆大動脈はミニ鉄道


これら23の製糖工場と周囲のサトウキビ畑をつなぐのが、ナロウ・ゲージ(610mm(2ft)ゲージと1067mm(3ft6inch)ゲージ)のミニ鉄道、サトウキビ鉄道 Cane Railway (しばしば "tramway" とも呼ばれる。)である。
この鉄道の役割は、収穫された新鮮なサトウキビを、加工のためにできるだけ早く製糖工場に運ぶことで、できれば刈り取ってから12~18時間以内、遅くとも24時間以内には工場に届けなければならない。最盛期には毎日24時間休みなしに稼動している。
クイーンズランド州における線路の延長は約4000km(うち本線は約3000km)あり、年間26週間の収穫期(通常6,7月から11,12月)には、約3千6百万トンのサトウキビを運ぶ。(私が見たのは、ちょうど収穫期が始まったばかりの頃だったのだ。)
現在250台のディーゼル機関車と約52000台の貨車が稼動中で、切り倒されたサトウキビをせっせと工場に運んでいる。

◆コンピュータによる運行管理


鉄道の運行は基本的には大変シンプルである。
各機関車は製糖工場の空車ヤードから大きな籠の付いた空の貨車 "bins" をかき集め、鉄道沿線にある荷積所にそれらを配る。荷積所には待機線があって、貨車は生産者や集荷業者によって貨車が満たされるまで待機する。
帰りには、機関車がいくつもの荷積所からサトウキビが満載された貨車を拾い集めて、製糖工場まで引っ張っていく。貨車は計量所を通って積荷が計量され、荷降場でサトウキビがひっくり返され加工工程へと進む。空になった貨車は空車ヤードに進み、また同じことが繰り返される。

1トンの粗糖を製造するには約8トンのサトウキビが必要。収穫のほとんどは日中行なわれるが、24時間稼動している製糖工場にいかに円滑に材料を供給するかが、この鉄道の役割であり、機関車の運転要員は1日8時間の3シフト制で働くことになる。
それぞれの工場では、運行管理者がいくつもの荷積所への貨車の配車の責任を負っていて、機関車を最大限に活用しサトウキビが最も効率的に工場に貯蔵されるように、コンピューターによるスケジュール管理が行なわれている。

◆小さくても力持ち

機関車は520キロワット・パワーのものが使われ、ほとんどは2ft・ゲージと3ft6inchゲージのどちらにも使える。荷積所から工場までの平均輸送距離は35kmくらいだが、最長では119kmになるところもある。
列車は時速40kmで走り、1編成で重さで2000トン、長さでは1kmになるものもある。
クイーンズランド、ニュー・サウス・ウェールズ、西オーストラリアの数カ所の工場では、鉄道を持たず道路輸送に頼っているところもあるそうだが、現在では、生産量の多いところでは鉄道の方が経済的であると言われている。

一昔前まで使われいた右上の写真のようなかわいい蒸気機関車が、工場を訪れる見学者を乗せて走っているところもあるそうだ。

2000/07/26

もう一つの音(歩行者用音響信号)

オーストラリアを歩いて、未だに耳に残っているもう一つの音がある。
といっても、音楽でも小鳥のさえずりでもない。
それは、どこの街でも聞いた横断歩道の音響信号の音なのである。

ケアンズの宿に着いて小休止の後オーストラリアでの第一歩を踏み出したとき、初めて歩行者用の信号に出くわした。
車は左側通行で日本と同じだから、まったく違和感はないのだが、車用の信号が青に変わっても歩行者用の信号は赤のまま。「ピッ…ピッ…ピッ…」という変な断続音が鳴っている。
さて、いつになったら渡れるのだろうと考えていると、横断歩道の手前に左の写真のようなはでっかい押しボタンがあるのに気がつく。ボタンの直径は10センチ位ありそうだ。

ボタンを押してしばらくすると、突然「ギュン!!トットットットットットット・・・」というけたたましい音が鳴って歩行者用信号が青に変わった。
日本の「カッコー」、「ピヨピヨ」や「とおりゃんせ」、「夕焼け小焼け」の曲に比べて、何とも騒々しい音である。

《上の画像をクリックすると音が鳴りますよ!》

帰ってきて、もしやと思ってあちこちのサイトを探してみたら、ある信号機器メーカーのページで音が見つかった。無断拝借なので申しわけないが、オーストラリアを歩いた方には懐かしいあの音を先ずは聞いてみていただきたい。

なるほどと思って渡り始めると、半分渡ったかどうかというところで赤の点滅信号に変わり、元の音に戻ってしまう。「エッ!?」と、慌てて走り出してしまった。後になって気がついたのだが、点滅している時間は結構長い。
要するに、「青になれば渡り始めてよし、赤が点滅し始めたら渡り始めてはだめで、横断中の人はできるだけ急いで渡ってしまいなさい」ということなのだ。
いつも音が鳴っているのは、視覚障害者が「信号のある横断歩道」の場所を耳で確認できるための配慮だ。

この方式と音は、どの街でもほとんど同じだったが、車の交通量が少ないためか、日本に比べると概して横断歩道や歩行者用信号の数は少ない。かなり広い道でも、信号のない交差点もある。
しかし、信号のあるところで信号無視をすると歩行者でもかなり高い罰金が課せられるそうだから、注意が必要である。

2000/07/24

オーストラリアのお金(2)

◆紙幣? polymer notes

オーストラリアのお札は、紙ではなくてポリマーという柔らかいプラスチックで作られている。あえて言うなら、「ポリ幣」か「プラ幣」ということになる。
1988年、世界で初めてのポリマー紙幣が記念紙幣として発行され、その後5ドル札から徐々に一般紙幣にも導入されて、92年から96年にかけて、流通している全ての札がポリマー製に置きかえられた。
手触りは思ったより柔らかく、その上丈夫だ。当然水にも強い。
下の写真のように、赤、青、黄色などとてもカラフル。しかも透明な部分まであって向こう側が透けて見える。
ポリマー化した理由は、清潔さ、耐久性、偽造防止などが挙げられるが、木の伐採をによる森林破壊を防止するという環境保全の姿勢もうかがうことができる。
10ドル札の場合、紙製なら数ヶ月の寿命であるのに対し、ポリマー製のものは少なくとも30ヶ月はもつという。寿命を終えたものは、他のプラスチック製品にリサイクルすることも可能だ。

●5ドル
<表>エリザベス2世女王(1926~)
何故か、オーストラリアの国家元首エリザベス女王が、最も小額の紙幣に描かれている。
女王の左に描かれているのは、オーストラリアに固有のアカシアの枝である。


<裏>新旧の国会議事堂
10ドル札から100ドル札まで、両面ともオーストラリアを代表する人物が描かれているが、5ドル札だけには建築物が描かれている。
新旧の国会議事堂は、新しい始まりと古い伝統の継続を意味しているというが、エリザベス女王の裏に誰を描くか、と考えるたとき、他の人物があげられなかったというところが本音かもしれない。

 
●10ドル
<表>アンドリュー・バートン・パターソン(1864~1941)
詩人であり、「ワルチング・マチルダ」の作詞者。この詩はオーストラリア国歌候補に上がったが、内容があまりにも辺境っぽく品格に欠けるという理由で落選。しかし、ワルチング・マチルダは世界中で歌われ、カンガルーやコアラと同じくオーストラリアを象徴するアイテムとして知られている。


<裏>ダム・マリー・ギルモア(女性・1865~1962)
詩人・作家。女性の人権、アボリジニの福祉、囚人の扱いなど、社会的弱者をなくすための様々な活動を行い作品を残した。


●20ドル
<表>マリー・ライビー(女性・1777~1855)
女性実業家の草分け。イギリス・ハンプシャー生まれ。13歳の時に馬を盗んだ罪でオーストラリアへ流刑される。17歳で結婚。貨物船の仕事を始め手広く繁栄させる。夫の死後、7人の子を育て夫の残した会社を更に繁栄させ富と名声を得、一大実業家となった。


<裏>ジョン・フリン(1880~1951)
フライング・ドクター・サービスの創始者。フライング・ドクターとは辺境医療サービスのこと。アウトバックの主要都市に拠点を置き、飛行機で遠隔地の病人に対応するなど、広大な国土を持つオーストラリアならではの医療制度。アリス・スプリングスには、彼が初めて作った病院や彼を記念した教会がある。


●50ドル
<表>デイビッド・ユナイポン(1873~1967)
先住民族アボリジニ初の作家。代表作に「Native Legend」「My Life Story」などがある。


<裏>エディス・ディルクセイ・カーワン(女性・1861~1932)
西オーストラリア州出身の政治家で議会初の女性議員。ソーシャルワーカーであり、フェミニスト。女性の教育権や未婚の母の保護、子供を社会から守る運動など法整備への礎を築いた。


●100ドル
<表>ネリー・メルパ(女性・1861~1931)
19世紀後半から20世紀前半にかけて世界的名声を得たオペラ歌手。名前のメルバは、彼女の誕生の地メルボルンにちなんでつけられたもの。ソプラノで3オクターブの音域を持つ彼女は、22年間に約200曲を録音した。


<裏>ジョン・モナシュ卿。(1865~1931)
軍人、エンジニア、行政官として多彩な才能を発揮した人物。第一次大戦、アンザック軍団を率いてル・ハメルの戦いで大勝利を収めた。1958年、彼の偉大な功績をたたえてメルボルンにモナシュ大学が設立された。


2000/07/22

オーストラリアのお金(1)

「お金の話」といっても、物価や貨幣価値,為替レートの話ではない。お札やコインといった、お金そのものの話である。
オーストラリアには、世界初といわれるプラスチック製の「紙幣?」があり、またコインのデザインも大変ユニーク。
そんなわけで、これからオーストラリアを訪れる方の予備知識にもなればと思い、オーストラリアのお金について述べてみることにした。

オーストラリアでは、1788年の植民地宣言以来、イギリスと同様にポンド・シリングを通貨単位として使っていたが、1966年2月14日の連邦法改正により十進法通貨単位ドル・セントを採用した。
現在オーストラリアで流通している通貨は、5、10、20、50、100ドルの5種類の紙幣と、5、10、20、50セントそれに1ドル、2ドルの6種類のコインである。
以前流通していた1セントと2セントのコインは現在は使われなくなったため、5セント単位で切り上げまたは切り捨てされた金額を支払うことになる。

◆コイン

6種類のコインの表側には、ポンド・シリング時代と同様、すべて君主エリザベス2世の横顔が描かれ、そのコインが鋳造された年が刻印されている。
1966年に最初に鋳造された十進法コインの裏側には、オーストラリア固有の動物の絵が描かれたが、後に、有名な人物や出来事を記念したデザインも施されるようになった。


※裏の話
《別にコインにまつわる「ウラバナシ」ではない……。コインの裏に描かれている絵についての話である。》

●5セント……エキドナ Echidna
丸まったハリモグラが描かれている。
ハリモグラはカモノハシと同類で、どちらも卵で子どもを産む世界でただ一つの哺乳動物。孵化した後、自分で餌を捕れるようになるまで母親のミルクで育てられる。
ハリモグラは、半砂漠から熱帯雨林までオーストラリアの多くの地域で、窪地や木の下や岩の中に棲息している。彼らは鼻先で蟻や白蟻を探り、長い粘着性のある舌でそれらをなめて食べる。害敵に出会うと素早く穴を掘って隠れることができる。

●10セント……コトドリ Lyrebird
尻尾の羽がきれいなコトドリが描かれている。
雄の尻尾の羽は古代の楽器(リラ)に形が似ており、それ故に『コトドリ』と名付けられた。
コトドリはオーストラリアだけで見つかる鳥で、ビクトリアから南部クィーンズランドまでの高湿度の森林に棲息している。

●20セント……カモノハシ Platypus
カモノハシとハリモグラは世界でただ一つの卵で子どもを産む哺乳動物。子どもは、母親の腹部の羽毛の中にある腺からミルクを飲む。その鼻先が鴨やアヒルのクチバシのような形をしているためカモノハシと呼ばれる。
足に水かきがあり、泳いで小さなエビや昆虫の幼虫を探して食べる。
カモノハシは、東部オーストラリアの川の岸辺に穴を掘って巣を作る。

●50セント……オーストラリア連邦の紋章 Coat of Arms
中央の盾の上に6つの州の紋章が並んでいる。
その盾を、オーストラリアの国花(ナガバアカシア)を背景にしてカンガルーとエミューが支えている。
50セントコインは唯一円形でないコインで、十二角形である。大きさも最も大きい。

●1ドル……カンガルー Kangaroo
1ドルコインの裏はカンガルー。
それらは有袋動物と呼ばれる哺乳動である。カンガルーは、ネズミ大から2メーターを超えるものまで、いろいろなサイズの種類がある。オーストラリアの至る所で見られ、主として草類を食べる。
1ドルのコインは数ヶ月しかもたない紙幣に換えて発行されたもので、耐用年数は平均30年といわれている。

●2ドル……アボリジニ部族の長老 Aboriginal Tribal Elder
2ドルのコインの裏側には、南十字星とオーストラリア在来の植物を背景にアボリジニの部族の長老が描かれている。
1966年に発行された2ドル紙幣に換えて、1988年に鋳造された。
直径は1$より小さく、厚みは少し厚い。

2000/07/20

映画:渚にて ON THE BEACH

この映画は、1959年に配給されたスタンリー・クレイマー監督 Stanley Kramer の社会派SF。ネヴィル・シュート Nevil Shute の同名の原作を映画化したものだ。
グレゴリー・ペック Gregory Peck 、エヴァ・ガードナー Ava Gardner 、アンソニー・パーキンス Anthony Perkins 、それにフレッド・アステア Fred Astaire という、かなりのオール・スター・キャスト。

私がこの映画をはじめて見たのは、大学2年のことだったと思う。こぼれ話5でも書いたが、ほぼ全編に流れるウォルシング・マチルダの曲が印象的だった。
時はまだ冷戦時代の真っ只中にあり、核戦争の恐怖も身近に感じられた頃の作品。身の引き締まる思いで鑑賞したのを覚えている。

この作品を撮ったスタンリー・クレイマーが先年亡くなった。数々の名作を提供してくれた巨匠に心からの感謝をささげ、冥福を祈りたい。

そして2003年6月12日、この映画で主役をつとめたグレゴリー・ペックも亡くなった。87歳。
「ローマの休日」「ナバロンの要塞」「アラベスク」「白鯨」「頭上の敵機」「大いなる西部」などなど。大学時代まで洋画一辺倒だった私にとって、忘れられない俳優の一人である。心からご冥福を祈りたい。

◆あらすじ
 1964年、米ソの対立により勃発した第3次世界大戦は、開戦間もなく終結した。それから数ヶ月、北半球は放射能に覆われすべての人類は死滅してしまった。唯一南半球の一部だけが今のところ放射性降下物の汚染を免れ、オーストラリア・メルボルンには、まだいつものような人の営みがある。

 そんなある日、ドワイト・タワーズ Dwight Towers (Gregory Peck) 艦長指揮下のアメリカの原子力潜水艦ソーフィッシュがポート・フィリップ湾 Port Phillip Bay に浮上する。既にアメリカという国家は消滅している。束の間の休息をとる艦長と乗組員たち。
 メルボルン郊外のフランクストン Frankston 、メアリー・ホルムズ Mary Holmes (Donna Anderson) は、夫ピーター・ホルムズ大尉 Peter Holmes (Anthony Perkins) に、何故彼がブリディー司令官 Bridie (John Tate) に呼ばれたのかを尋ねる。ホルムズはブリディーから、自分が調査隊の乗組員に選ばれたことを知らされる。妻と子どもを残していくことを心配して、ホルムズは調査行がどのくらいの期間なのかと司令官に質問する。ブリディーは4ヶ月間だといい、科学者達の計算では、放射性雲がオーストラリアに到達するまで5ヶ月しか残されていないことを説明する。ホルムズは艦長に報告するが、艦長は調査行について何も語らない。

 ホルムズは妻に、週末を一緒に過ごすため艦長を招待したことを告げ、パーティーを開こうと提案する。メアリーは同意し、タワーズに会わせようと彼らの友人モイラ・デビッドソン Moira Davidson (Ava Gardner) を招待する。モイラは駅に着いたタワーズに会い、パーティに連れて行く。飲み過ぎてしまったイギリスの科学者ジュリアン・オズボーン Julian Osborn (Fred Astaire) が他の客の「世界的な悲劇は科学者の責任だ」という発言に気分を害するまでは、パーティーはうまく行っていたのだが……。オズボーンが相手を罵ったとき、モイラは悲鳴を上げて彼を黙らせ、部屋を飛び出ていく。ホルムズはモイラをなだめるが、彼女は誰かが差し迫った運命について話しているのを聞くことに我慢ができないのだという。パーティの後、タワーズは彼女に、彼とその乗組員が惨劇のとき水中に潜って生き残った様子を話して聞かせる。酔ったモリアはタワーズに近づこうとするが酔いつぶれてしまう。タワーズは彼女をベッドに運ぶ。

 翌日海軍省の本部で、ジョーゲンソン教授 Jorgenson (Peter Williams) が、北半球の降雨と降雪が大気中の放射能を降下させ、生き残った者への脅威を多少は和らげるかも知れないという理論を説明する。司令官はホルムズに対し、今度の調査行はこの理論を試すため可能な限り北へ向かうことであると伝える。モイラは艦にタワーズを尋ねるが、家族のことを現在形で話す彼の癖にますます心を乱されてしまう。モイラはオズボーンに会うが、彼もまた調査行に加わる予定であることを知る。

 ブリディーに呼ばれたタワーズは、誰も生き残っていないはずのサンディエゴの近くから発信されている無線信号が見つかったという驚くべき事実を聞かされる。
 原潜に乗って北へ向かった乗組員が目にしたのは、廃墟と化した都市。建物は元のまま残っているが、街を歩いている人の姿はない。どこまでもどこまでも無人の街……。キャッチした謎のモールス信号は、空のコーラの瓶が風にはためくカーテンの紐に引っ掛かり、無線機に接触して発信されているものだった。潜水艦の若い乗員が、彼の故郷サンフランシスコ沖で、街には誰もいないことそして彼も間もなく死んでしまうことを知りながら、仲間を残して岸へ向かって泳ぎ出す。

 メルボルンの人々はやがて来る死の灰におびえながらも最後の時まで冷静に生活を送る。逃げる場所も助かる方法もないのだから。人々は不安を楽しみで紛らわす。マス釣りの解禁日が早められ、釣りを楽しむ市民達。お酒を飲んで歌を歌う。しかし決してパニックにはならない。例のワルツィング・マチルダが時には陽気に、時にはレクイエムの様に流れる。
 ついに海岸のガイガーカウンターの針が弱くしかし確実に震えはじめた。とうとう人類最後の土地にまで放射能はやってきたのだ。ソーフィッシュがメルボルンに戻って来る頃、放射線症の最初の症例が報告される。
 最初は日常の仕事に向かう人々で溢れていたメルボルンの街路は、精神的な導きを求めて救世軍に向かう人々、政府の配給する安楽死用の薬に列を作る人々という、まったく逆の群集で再び混み始める。

 初産を終えたばかりの若い母親は赤ん坊を抱き薬を拒む。夫がやさしく言う。「この子を健康のうちに生涯を終えさせてあげよう」。アマチュアレーサーとしての夢を果たしたオズボーンは、マシンのコクピットでエンジンをふかしながら薬を飲む。艦長は故郷のアメリカで死のうと希望者を乗せてアメリカへ向け出港する。それを渚で見送るモイラ。

 カメラは誰もいなくなったメルボルンの通りをパンした後、風にはためく横断幕に焦点を合わせる。それは現代社会への僅かな希望と暗黙の警告を示している。
「兄弟よ、まだ時間はある。」 “There is still time... brother.”

(ちなみに、この映画には "THE END" という例のエンド・マークは出ない。)

 悲劇はどうして起こったのか。ソーフィッシュの乗組員がオズボーンの周りに集まり彼らの運命について説明を求めたとき、誰がボタンを押したのか、そして何故押したのかさえ、知っている者は誰も生き残っていなかった。

 オーストラリア人の評論家によれば、最後の部分にオーストラリア人の性格をうまく描写したところがあるという。一つは、二人の男が、終末までに彼らのお気に入りのビンテージ・ワインの貯蔵品を仕上げるのに時間が足りないと嘆くシーン。もっとうまいのは、このような壊滅に向かう状態のもとでさえスポーツ・イベント(このケースでは、フィリップ島グランプリ)を開催し続ける頑固さだそうだ。

監督・製作:スタンリー・クレイマー
原作:ネヴィル・シュート
脚本:ジョン・パクストン/ジェームズ・リー・バレット
出演:グレゴリー・ペック/エヴァ・ガードナー/フレッド・アステア/アンソニー・パーキンス/ドナ・アンダーソン

◆エンド・オブ・ザ・ワールド
実はこの "On The Beach" は、昨年(2000年)にリメイクされた。今度の日本名は「エンド・オブ・ザ・ワールド」。映画での設定は前作「渚にて」とは多少異なる。

2006年。中国の台湾侵略を阻止すべく、アメリカが中国に宣戦布告をした。戦況が悪化する一方の中、中国は遂にアメリカに核弾頭を発射。報復のため、アメリカ側も中国に核爆弾を落とし、北半球は完全に壊滅した。
祖国が全滅必至の中、死を免れたアメリカ海軍の潜水艦が、放射能がまだ届いていない南半球オーストラリアを目指し、メルボルンに到着する。
だが、未来は楽観できなかった。風向きが変り、北半球にとどまっていたはずの放射能が南半球に広がり始めていた。
悲観的な予測がはびこっている中、豪政府お抱えの科学者の一人が、北半球の放射能は、核爆発時に空いたオゾン層の穴から入ってくる紫外線により弱まっているとの楽観説を唱え始め、一縷の望みにかけ、政府はアメリカの潜水艦を北緯60度以北に派遣し、放射能汚染度の計測を命じる。
出航前日、北半球に生存者がいる証拠を、豪政府はつかむ。それは、北のどこかから送られてくる、ビデオ・ファイルが添付されたEメールだった。文字化けのため、ビデオもメールもきちんと見ることはできないが、人がいることは確実。放射能レベルの低下調査の旅は、メール発信者探しという、格段と希望に満ちたものになり、遂に潜水艦は北へ出発した。