2000/08/10

アンザック・ビスケット ANZAC Biscuit

オーストラリアには、アンザック・ビスケット "ANZAC Biscuit" というクッキーがあり、ベジマイト Vegemite やあの巨大なオージー・バーベキューと同様に、オーストラリアを代表する食べ物となっている。
アンザック・デーにはそれそれの家庭のレシピで焼かれて家族やパーティーで楽しまれ、また、在郷軍人組織の資金集めの手段としてバザーなどで売られる。
最近ではスーパーや菓子店などでも1年中売られていて、我々旅人も目にし口にすることができる。

小生、クッキーを焼けるわけではない(焼いたこともない)が、現在最も一般的なレシピと作り方を紹介しておこう。

材料(30個分)
  • 小麦粉、砂糖、押しからす麦、ココナッツ 各1カップ
  • バター 4オンス
  • 糖蜜またはゴールデンシロップ 1テーブルスプーン
  • 熱湯 2テーブルスプーン
  • 炭酸ソーダ 1テーブルスプーン
  • 塩 1摘み
作り方
  1. あらかじめオーブンを175度に熱し、クッキーシートに油をひいておく
  2. 小麦粉、砂糖、押しからす麦、ココナッツ、炭酸ソーダ、塩を、大きなボールでよくかき混ぜる
  3. 別のボールでバターを溶かし、シロップとお湯を加える
  4. 3を2に注ぎ、スプーンでよくかき混ぜこねる
  5. こねたものをスプーンですくってクッキーシートに並べる
  6. オーブンに入れ、12~15分焼く
  7. 焼けたクッキーを取り出し、約10分間冷ます

◆アンザック・ビスケットの起源
さて、アンザック・ビスケットの起源は?となると、いくつかの説があるようだが、いろいろと聞きかじった話を紹介しよう。

アンザック・ビスケットは、スコットランドのオートケーキ Oatcakes に由来するというのが通説。
スコットランドからの移民は、これをパンと同様に肉やチーズあるいはジャムと共に朝食や昼食に供していた。
19世紀中頃の古いレシピでは、砂糖もココナッツも使っていない(使いたくても使えなかったようだ。)。
1890年代になると、砂糖やシロップがたまに加えられるようになり、オートケーキは時おりビスケットとして供された。1910年頃には、ココナッツ、卵、ミルクなどの他の材料が加えられるようになる。

◆兵隊さんのビスケット
第一次世界大戦が始まり、兵士を戦地に送り出したオーストラリアやニュージーランドの妻、母親、ガールフレンド達は、男達の食べ物の栄養を心配していた。できるだけ栄養価の高いものを持たせてやりたい、送ってやりたいと考えていた。
ただし、一つの問題があった。彼女達が兵士達に送る食べ物は、すべて商船で戦地まで送られる。そのスピードは約10ノット。ほとんどの船は冷蔵設備を持っていなかったから、2ヶ月を超える輸送期間の後でも安全においしく食べられるものでなければならない。
婦人達が出した結論は、可能な限りの栄養価を含んだビスケットだった。彼らが使った材料は、押しからす麦、砂糖、小麦粉、ココナッツ、バター、ゴールデン・シロップまたは糖蜜、重炭酸ソーダ。
興味ある事実は、当時のアンザック・ビスケットの材料にミルクや卵が含まれていなかったことである。理由の一つは、ミルクや卵のような腐りやすい材料を使えなかったこと。もう一つの理由は、養鶏農場のほとんどの男達が戦争に参加したため、卵が不足していたことだったという。

最初、このビスケットは「兵隊さんのビスケット」 "Soldiers' Biscuits" と呼ばれたが、ガリポリ上陸作戦の後、一般的に「アンザック・ビスケット」 "ANZAC Biscuits" と呼ばれるようになった。

一方、赤十字などの慈善団体は、ガーデン・パーティや屋台などでアンザック・ビスケットを売って兵士を送り出すための資金を集めた。数人の女性が屋台でビスケットを売っている当時の写真が残されており、ビスケットの皿に "ANZAC Biscuits" と記されているのが読めるそうだ。

銃後の留守家族が心をこめて作ったアンザック・ビスケットは、以上のようなものだったが、政府が製造して兵士達に支給したものは、「軍隊ビスケット」(ANZAC Wafer または ANZAC Tile としても知られている)と呼ばれ、本質的にはパンの代わりをする貯蔵寿命の長い「乾パン」だったという話もある。
パンともアンザック・ビスケットとも違って、このビスケットはものすごく堅く、兵士はこれを粉にして水と砂糖を加えて「かゆ」にして食べていたものもいたそうだ。
当時、アンザックと一緒に戦った他国の兵士達の間では、これがアンザック・ビスケットだと考えられていた。
ちなみに、この種のお菓子、米語では cookie,cooky、イギリス英語では biscuit と呼ばれるが、英語の biscuit には、「乾パン」の意味がある。

起源はともあれ、現在作られているものはあくまでもクッキーであり、外側はカリカリっとして、中身はしっとり感のある結構おいしいお菓子である。

アンザック ANZAC

オーストラリアを歩いていると、あちこちで「アンザック」 "ANZAC" という言葉に出会う。
Anzac Memorial、Anzac Park、Anzac Hill、そして Anzac Day などなど。

ANZAC (Australia and New Zealand Army Corps) 。それは第一次世界大戦時に結成されたオーストラリア・ニュージーランド連合軍のことを指す。アンザック軍団は大英帝国軍の一員としてヨーロッパの戦いに参加し、ある時は多大な犠牲を払い、ある時は勇敢な戦いで見事な戦果をあげた。
この参戦は、独立間もないオーストラリア連邦が初めて国際社会に登場するきっかけとなり、戦後オーストラリアは国際連盟への加盟を果たすこととなった。

◇第一次世界大戦の勃発とオーストラリアの参戦
1914年、ヨーロッパでは、ますます強さを増したドイツ帝国と英・仏・露同盟間の対立は一触即発の状況にあった。ドイツは8月1日対ロシア、3日対フランスに宣戦を布告し、これに対抗してイギリスも4日ドイツに対し宣戦を布告した。この宣戦布告は大英帝国全体を含むものだった。
オーストラリアの首相ジョセフ・クック Joseph Cook は、「祖国が戦うなら我々も」 "If the Old Country is at war, so are we" と宣言。オーストラリアは選挙運動の真っ最中だったが、野党党首アンドリュー・フィッシャー Andrew Fisher は大英帝国に「最後の一人、最後の1シリングまで」ドイツと戦うことを約束し、首相は「我々の義務は明らか。腰を固め、我々が英国人であることを思い出そう」と応じた。

カナダは3万人を送ると申し出、オーストラリアは2万人を約束した。ニュージーランドは既に兵員の訓練を始めていた。1個師団の歩兵部隊しか常備軍を持っていなかったオーストラリアは、志願兵による新しい軍隊、オーストラリア帝国軍 the Australian Imperial Force (the AIF) を結成することを決め、宣戦布告の数日後には募集を開始した。

当時ほとんどの人々は、開戦を歓喜をもって迎えた。戦争はクリスマスまでに終結するだろうと考え、男達は冒険と興奮に乗り遅れまいと兵員募集センターに殺到する。
募集資格に達していない若い人達も年令を偽って応募し、そのほとんどが受け入れられた。1ヶ月余りの間、主要都市では応募を奨励するための行進が行なわれた。【写真上】
彼らは「1日6シリングの旅行者」 "six bob a day tourists" と呼ばれた。何故なら、当時としては給料は高く、ほとんどがイギリスの陸海軍がドイツをやっつけて戦争はすぐに終わると考えていたのである。

◇軍団の結成
10月後半、集められた兵士達を乗せた船団は、スエズ運河経由でヨーロッパに向った。途中、ニュージーランド軍と合流してアンザック軍団を結成する。しかし、アンザック軍団は一旦エジプトに上陸、ピラミッドの近くに野営して厳しい訓練を受けることになった。
あまり知られていないが、1902年に締結された日英同盟に基づき、イギリス政府の要請を受けた日本の艦隊がアンザック軍団護送の護衛に当たった。アンザック軍の補充は休戦の日まで続けられ、日本艦隊も最後までオーストラリア・スエズ間の護衛に従事した。

◇ガリポリ上陸作戦

東部戦線でドイツと戦っていたロシアは、ロシアへの圧力を軽減するためトルコを叩くようイギリスとフランスに要請する。イギリスのキッチナー将軍 Kitchener Herbert は、ロシアへの補給路確保も兼ねてダーダネルス海峡への攻撃を提案、この結果、エジプトでの訓練を終えて英仏軍に合流したアンザック軍団は、ガリポリ半島での恐ろしい砲火の洗礼を浴びることになる。

イギリス軍の現地指揮官ハミルトン卿 Sir Ian Hamilton は、トルコ軍の兵力は僅か4万人であり、ガリポリの上陸作戦は容易に完了すると予測していた。
ハミルトンは全部隊を3分割し、イギリス本国部隊は最南端から北上、フランス軍は陽動作戦で対岸のアジア側に上陸しすぐ撤退、アンザック軍はやや北西の離れた地点に上陸し本体の到着を待つ、という機能をもたせた。

◇アンザック入江の悲劇
1915年4月25日未明、上陸作戦が開始された。アンザック軍は当初予定のガバテペに向かったが潮流に押されやや北の名前のない入り江に上陸した。ここはその後アンザック入江 Anzac cove と呼ばれるようになる。【写真左】
アンザック軍団は、いばらに覆われた岩だらけの高地を超えてほんの少し前進した。
しかしトルコ軍の遠方からの砲撃は徐々に照準が合い、海岸の上陸地点に命中しはじめ、後続の兵は被害を受けつつあった。高地にあがった兵も、時折飛来する狙撃兵の銃弾に身を隠すだけで、何をしたらよいか見当がつかなかった。
6、7月、アンザック入江では海岸から直立するアナファルタ丘陵の南部に連なるサリバイール・リッジの攻防が行われた。いずれも数百ヤードの取り合いに終始し、その戦力は死傷者と病人で消耗しつつあった。一方その間もトルコ軍は戦力の増強が可能だった。

8月6日、連合軍は再び攻勢に出た。アンザック入江ではニュージーランド部隊が好調に進み、遂にサリバイール・リッジ中最高峰の一つ、しゃくなげ高地に達した。そこから見るダーダネルス海峡の狭隘部は絶景でかつ360度の視界が利いた。しかし出発地点を見下ろすと、トルコ軍の反撃でオーストラリア兵の死体が折り重なっているのが見えた。頂上にいても増援が期待できず、僅か3時間で北方に撤退した。実はこれがイギリス軍の最大進出線で、再びダーダネルス海峡狭隘部を陸上から目視することはできなかった。

◇敗北と撤退
8月10日、トルコ軍の猛反撃が始まり、しゃくなげ高地周辺で孤立していたアンザック軍もさすがに持ちこたえることができなかった。戦闘は23日まで続いたがイギリス軍は結局2万人に及ぶ戦死傷者を出し海浜部に閉じ込められた。この他に2万2千人が赤痢・チフスに倒れ、エジプトのアレクサンドリアは負傷者と病人で埋まったという。
ガリポリ作戦の失敗は明らかとなった。オーストラリアの若いジャーナリスト、キース・マードック Keith Murdoch は、極秘裏にダーダネルスの損害の規模についてオーストラリアの首相に書き送った。それはイギリスの首相デビッド・ロイド・ジョージに伝えられ、ハミルトン卿は更迭された。

イギリス政府は遂に撤退を命じた。1915年12月20日、アンザックの空になった塹壕に攻撃を続けるトルコ軍に気づかれることなく、撤退は完了した。1916年1月6日、ガリポリへの最後の攻撃を実行したトルコ軍は、アンザック軍の全軍が一人の犠牲者も出さずに撤退してしまっていることに気がつく。その撤退は、皮肉にも連合国のガリポリにおける作戦の中で最も成功した作戦だった。

◇大きすぎた犠牲
イギリスはガリポリの戦いに46万8千の兵士を送りこみ、33512名の死者、7636名の行方不明者、78000名の負傷者を出した。うち、アンザック軍団は、ガリポリで8000人を失い、18000人以上が負傷した。
オーストラリアの当時の人口は約5百万人。第一次大戦に33万人が出兵し、59000人が戦死した。
人口百万人のニュージーランドは、兵士11万人のうち18000人が戦死し、55000人が負傷した。このニュージーランドの死傷者率62%は、アングロ・サクソン世界からの参戦国の中で最も高い数字である。

アンザック軍団はその後、パレスチナとフランスの西部戦線に送られる。
1918年、西部戦線のフランス、ル・ハメル Le Hamel の戦いでは、大きな戦功をあげた。この時のアンザック軍団の指揮官が、100ドル札の裏に描かれているジョン・モナシュ卿 Sir John Monash である。

オーストラリアでは、ガリポリ半島に上陸を開始した4月25日をアンザック・デー Anzac day として祝日にしている。この日には、第一次世界大戦だけでなく、これまでのすべての戦争における戦死者の霊が弔われ、世界平和への祈りが捧げられる。

2000/07/30

もう一つの鉄道(サトウキビ鉄道)

ケアンズからバスでブリスベンに向かう途中、ハイウェイに並行して走る線路を見た。
最初は普通の鉄道の線路だろうと思っていたが、どう見ても線路の幅が狭く感じる。1メートルもない感じなのである。その線路が道路を斜めに横切っている踏み切りもあったが、やはりその線路の幅員は数10センチしかない。いわゆるトロッコの線路なのである。

何時間か走ったところで、その線路を籠のような貨車の長い列がディーゼル機関車に引かれて行くのを見ることができた。貨車に積まれているのはサトウキビ。確かに、この沿線にはサトウキビ畑が延々と続く。なるほどこの列車は、サトウキビ畑から製糖工場へキビを運ぶ鉄道だったのだ。それにしてもこの鉄道の延長は長い。朝ケアンズを出てから暗くなるまで、ハイウェイの右に左にと延々と見えていた。
子供の頃、サトウキビは大分の田舎でも植えていたので、よくかじったことがある。沖縄でかなり大きなサトウキビ畑を見たこともあるが、さすがにここオーストラリアでは、スケールの違いを感じる。

帰ってきてから調べてみたら、この鉄道の総延長はクイーンズランド州で4000kmにも及ぶそうである。折角だから、この『サトウキビ鉄道』についてご紹介しておこうと思う。

◆世界第2位の砂糖生産国

オーストラリアはブラジルに次ぐ世界第2位の砂糖生産国で、サトウキビの作付け面積は約41万ヘクタール。年間約490万トン(数字はいずれも98/99年度)の粗糖が生産され、その95%がここクイーンズランドで作られる。
サトウキビ畑はほとんどが南太平洋沿岸に沿って分布しており、その作付エリアには、現在23の製糖工場が、南のナンバー Nambour から北のモスマン Mossman まで、1750kmにわたって点在する。

クイーンズランド産の約8割は輸出用(他州はほとんどが国内消費用)で、砂糖産業のクイーンズランド州経済に占める地位は大きい。日本には年間60万トン程度の粗糖が輸出されていて、アメリカに次ぐ第2位の輸出先となっている。

◆大動脈はミニ鉄道


これら23の製糖工場と周囲のサトウキビ畑をつなぐのが、ナロウ・ゲージ(610mm(2ft)ゲージと1067mm(3ft6inch)ゲージ)のミニ鉄道、サトウキビ鉄道 Cane Railway (しばしば "tramway" とも呼ばれる。)である。
この鉄道の役割は、収穫された新鮮なサトウキビを、加工のためにできるだけ早く製糖工場に運ぶことで、できれば刈り取ってから12~18時間以内、遅くとも24時間以内には工場に届けなければならない。最盛期には毎日24時間休みなしに稼動している。
クイーンズランド州における線路の延長は約4000km(うち本線は約3000km)あり、年間26週間の収穫期(通常6,7月から11,12月)には、約3千6百万トンのサトウキビを運ぶ。(私が見たのは、ちょうど収穫期が始まったばかりの頃だったのだ。)
現在250台のディーゼル機関車と約52000台の貨車が稼動中で、切り倒されたサトウキビをせっせと工場に運んでいる。

◆コンピュータによる運行管理


鉄道の運行は基本的には大変シンプルである。
各機関車は製糖工場の空車ヤードから大きな籠の付いた空の貨車 "bins" をかき集め、鉄道沿線にある荷積所にそれらを配る。荷積所には待機線があって、貨車は生産者や集荷業者によって貨車が満たされるまで待機する。
帰りには、機関車がいくつもの荷積所からサトウキビが満載された貨車を拾い集めて、製糖工場まで引っ張っていく。貨車は計量所を通って積荷が計量され、荷降場でサトウキビがひっくり返され加工工程へと進む。空になった貨車は空車ヤードに進み、また同じことが繰り返される。

1トンの粗糖を製造するには約8トンのサトウキビが必要。収穫のほとんどは日中行なわれるが、24時間稼動している製糖工場にいかに円滑に材料を供給するかが、この鉄道の役割であり、機関車の運転要員は1日8時間の3シフト制で働くことになる。
それぞれの工場では、運行管理者がいくつもの荷積所への貨車の配車の責任を負っていて、機関車を最大限に活用しサトウキビが最も効率的に工場に貯蔵されるように、コンピューターによるスケジュール管理が行なわれている。

◆小さくても力持ち

機関車は520キロワット・パワーのものが使われ、ほとんどは2ft・ゲージと3ft6inchゲージのどちらにも使える。荷積所から工場までの平均輸送距離は35kmくらいだが、最長では119kmになるところもある。
列車は時速40kmで走り、1編成で重さで2000トン、長さでは1kmになるものもある。
クイーンズランド、ニュー・サウス・ウェールズ、西オーストラリアの数カ所の工場では、鉄道を持たず道路輸送に頼っているところもあるそうだが、現在では、生産量の多いところでは鉄道の方が経済的であると言われている。

一昔前まで使われいた右上の写真のようなかわいい蒸気機関車が、工場を訪れる見学者を乗せて走っているところもあるそうだ。

2000/07/26

もう一つの音(歩行者用音響信号)

オーストラリアを歩いて、未だに耳に残っているもう一つの音がある。
といっても、音楽でも小鳥のさえずりでもない。
それは、どこの街でも聞いた横断歩道の音響信号の音なのである。

ケアンズの宿に着いて小休止の後オーストラリアでの第一歩を踏み出したとき、初めて歩行者用の信号に出くわした。
車は左側通行で日本と同じだから、まったく違和感はないのだが、車用の信号が青に変わっても歩行者用の信号は赤のまま。「ピッ…ピッ…ピッ…」という変な断続音が鳴っている。
さて、いつになったら渡れるのだろうと考えていると、横断歩道の手前に左の写真のようなはでっかい押しボタンがあるのに気がつく。ボタンの直径は10センチ位ありそうだ。

ボタンを押してしばらくすると、突然「ギュン!!トットットットットットット・・・」というけたたましい音が鳴って歩行者用信号が青に変わった。
日本の「カッコー」、「ピヨピヨ」や「とおりゃんせ」、「夕焼け小焼け」の曲に比べて、何とも騒々しい音である。

《上の画像をクリックすると音が鳴りますよ!》

帰ってきて、もしやと思ってあちこちのサイトを探してみたら、ある信号機器メーカーのページで音が見つかった。無断拝借なので申しわけないが、オーストラリアを歩いた方には懐かしいあの音を先ずは聞いてみていただきたい。

なるほどと思って渡り始めると、半分渡ったかどうかというところで赤の点滅信号に変わり、元の音に戻ってしまう。「エッ!?」と、慌てて走り出してしまった。後になって気がついたのだが、点滅している時間は結構長い。
要するに、「青になれば渡り始めてよし、赤が点滅し始めたら渡り始めてはだめで、横断中の人はできるだけ急いで渡ってしまいなさい」ということなのだ。
いつも音が鳴っているのは、視覚障害者が「信号のある横断歩道」の場所を耳で確認できるための配慮だ。

この方式と音は、どの街でもほとんど同じだったが、車の交通量が少ないためか、日本に比べると概して横断歩道や歩行者用信号の数は少ない。かなり広い道でも、信号のない交差点もある。
しかし、信号のあるところで信号無視をすると歩行者でもかなり高い罰金が課せられるそうだから、注意が必要である。

2000/07/24

オーストラリアのお金(2)

◆紙幣? polymer notes

オーストラリアのお札は、紙ではなくてポリマーという柔らかいプラスチックで作られている。あえて言うなら、「ポリ幣」か「プラ幣」ということになる。
1988年、世界で初めてのポリマー紙幣が記念紙幣として発行され、その後5ドル札から徐々に一般紙幣にも導入されて、92年から96年にかけて、流通している全ての札がポリマー製に置きかえられた。
手触りは思ったより柔らかく、その上丈夫だ。当然水にも強い。
下の写真のように、赤、青、黄色などとてもカラフル。しかも透明な部分まであって向こう側が透けて見える。
ポリマー化した理由は、清潔さ、耐久性、偽造防止などが挙げられるが、木の伐採をによる森林破壊を防止するという環境保全の姿勢もうかがうことができる。
10ドル札の場合、紙製なら数ヶ月の寿命であるのに対し、ポリマー製のものは少なくとも30ヶ月はもつという。寿命を終えたものは、他のプラスチック製品にリサイクルすることも可能だ。

●5ドル
<表>エリザベス2世女王(1926~)
何故か、オーストラリアの国家元首エリザベス女王が、最も小額の紙幣に描かれている。
女王の左に描かれているのは、オーストラリアに固有のアカシアの枝である。


<裏>新旧の国会議事堂
10ドル札から100ドル札まで、両面ともオーストラリアを代表する人物が描かれているが、5ドル札だけには建築物が描かれている。
新旧の国会議事堂は、新しい始まりと古い伝統の継続を意味しているというが、エリザベス女王の裏に誰を描くか、と考えるたとき、他の人物があげられなかったというところが本音かもしれない。

 
●10ドル
<表>アンドリュー・バートン・パターソン(1864~1941)
詩人であり、「ワルチング・マチルダ」の作詞者。この詩はオーストラリア国歌候補に上がったが、内容があまりにも辺境っぽく品格に欠けるという理由で落選。しかし、ワルチング・マチルダは世界中で歌われ、カンガルーやコアラと同じくオーストラリアを象徴するアイテムとして知られている。


<裏>ダム・マリー・ギルモア(女性・1865~1962)
詩人・作家。女性の人権、アボリジニの福祉、囚人の扱いなど、社会的弱者をなくすための様々な活動を行い作品を残した。


●20ドル
<表>マリー・ライビー(女性・1777~1855)
女性実業家の草分け。イギリス・ハンプシャー生まれ。13歳の時に馬を盗んだ罪でオーストラリアへ流刑される。17歳で結婚。貨物船の仕事を始め手広く繁栄させる。夫の死後、7人の子を育て夫の残した会社を更に繁栄させ富と名声を得、一大実業家となった。


<裏>ジョン・フリン(1880~1951)
フライング・ドクター・サービスの創始者。フライング・ドクターとは辺境医療サービスのこと。アウトバックの主要都市に拠点を置き、飛行機で遠隔地の病人に対応するなど、広大な国土を持つオーストラリアならではの医療制度。アリス・スプリングスには、彼が初めて作った病院や彼を記念した教会がある。


●50ドル
<表>デイビッド・ユナイポン(1873~1967)
先住民族アボリジニ初の作家。代表作に「Native Legend」「My Life Story」などがある。


<裏>エディス・ディルクセイ・カーワン(女性・1861~1932)
西オーストラリア州出身の政治家で議会初の女性議員。ソーシャルワーカーであり、フェミニスト。女性の教育権や未婚の母の保護、子供を社会から守る運動など法整備への礎を築いた。


●100ドル
<表>ネリー・メルパ(女性・1861~1931)
19世紀後半から20世紀前半にかけて世界的名声を得たオペラ歌手。名前のメルバは、彼女の誕生の地メルボルンにちなんでつけられたもの。ソプラノで3オクターブの音域を持つ彼女は、22年間に約200曲を録音した。


<裏>ジョン・モナシュ卿。(1865~1931)
軍人、エンジニア、行政官として多彩な才能を発揮した人物。第一次大戦、アンザック軍団を率いてル・ハメルの戦いで大勝利を収めた。1958年、彼の偉大な功績をたたえてメルボルンにモナシュ大学が設立された。


2000/07/22

オーストラリアのお金(1)

「お金の話」といっても、物価や貨幣価値,為替レートの話ではない。お札やコインといった、お金そのものの話である。
オーストラリアには、世界初といわれるプラスチック製の「紙幣?」があり、またコインのデザインも大変ユニーク。
そんなわけで、これからオーストラリアを訪れる方の予備知識にもなればと思い、オーストラリアのお金について述べてみることにした。

オーストラリアでは、1788年の植民地宣言以来、イギリスと同様にポンド・シリングを通貨単位として使っていたが、1966年2月14日の連邦法改正により十進法通貨単位ドル・セントを採用した。
現在オーストラリアで流通している通貨は、5、10、20、50、100ドルの5種類の紙幣と、5、10、20、50セントそれに1ドル、2ドルの6種類のコインである。
以前流通していた1セントと2セントのコインは現在は使われなくなったため、5セント単位で切り上げまたは切り捨てされた金額を支払うことになる。

◆コイン

6種類のコインの表側には、ポンド・シリング時代と同様、すべて君主エリザベス2世の横顔が描かれ、そのコインが鋳造された年が刻印されている。
1966年に最初に鋳造された十進法コインの裏側には、オーストラリア固有の動物の絵が描かれたが、後に、有名な人物や出来事を記念したデザインも施されるようになった。


※裏の話
《別にコインにまつわる「ウラバナシ」ではない……。コインの裏に描かれている絵についての話である。》

●5セント……エキドナ Echidna
丸まったハリモグラが描かれている。
ハリモグラはカモノハシと同類で、どちらも卵で子どもを産む世界でただ一つの哺乳動物。孵化した後、自分で餌を捕れるようになるまで母親のミルクで育てられる。
ハリモグラは、半砂漠から熱帯雨林までオーストラリアの多くの地域で、窪地や木の下や岩の中に棲息している。彼らは鼻先で蟻や白蟻を探り、長い粘着性のある舌でそれらをなめて食べる。害敵に出会うと素早く穴を掘って隠れることができる。

●10セント……コトドリ Lyrebird
尻尾の羽がきれいなコトドリが描かれている。
雄の尻尾の羽は古代の楽器(リラ)に形が似ており、それ故に『コトドリ』と名付けられた。
コトドリはオーストラリアだけで見つかる鳥で、ビクトリアから南部クィーンズランドまでの高湿度の森林に棲息している。

●20セント……カモノハシ Platypus
カモノハシとハリモグラは世界でただ一つの卵で子どもを産む哺乳動物。子どもは、母親の腹部の羽毛の中にある腺からミルクを飲む。その鼻先が鴨やアヒルのクチバシのような形をしているためカモノハシと呼ばれる。
足に水かきがあり、泳いで小さなエビや昆虫の幼虫を探して食べる。
カモノハシは、東部オーストラリアの川の岸辺に穴を掘って巣を作る。

●50セント……オーストラリア連邦の紋章 Coat of Arms
中央の盾の上に6つの州の紋章が並んでいる。
その盾を、オーストラリアの国花(ナガバアカシア)を背景にしてカンガルーとエミューが支えている。
50セントコインは唯一円形でないコインで、十二角形である。大きさも最も大きい。

●1ドル……カンガルー Kangaroo
1ドルコインの裏はカンガルー。
それらは有袋動物と呼ばれる哺乳動である。カンガルーは、ネズミ大から2メーターを超えるものまで、いろいろなサイズの種類がある。オーストラリアの至る所で見られ、主として草類を食べる。
1ドルのコインは数ヶ月しかもたない紙幣に換えて発行されたもので、耐用年数は平均30年といわれている。

●2ドル……アボリジニ部族の長老 Aboriginal Tribal Elder
2ドルのコインの裏側には、南十字星とオーストラリア在来の植物を背景にアボリジニの部族の長老が描かれている。
1966年に発行された2ドル紙幣に換えて、1988年に鋳造された。
直径は1$より小さく、厚みは少し厚い。

2000/07/20

映画:渚にて ON THE BEACH

この映画は、1959年に配給されたスタンリー・クレイマー監督 Stanley Kramer の社会派SF。ネヴィル・シュート Nevil Shute の同名の原作を映画化したものだ。
グレゴリー・ペック Gregory Peck 、エヴァ・ガードナー Ava Gardner 、アンソニー・パーキンス Anthony Perkins 、それにフレッド・アステア Fred Astaire という、かなりのオール・スター・キャスト。

私がこの映画をはじめて見たのは、大学2年のことだったと思う。こぼれ話5でも書いたが、ほぼ全編に流れるウォルシング・マチルダの曲が印象的だった。
時はまだ冷戦時代の真っ只中にあり、核戦争の恐怖も身近に感じられた頃の作品。身の引き締まる思いで鑑賞したのを覚えている。

この作品を撮ったスタンリー・クレイマーが先年亡くなった。数々の名作を提供してくれた巨匠に心からの感謝をささげ、冥福を祈りたい。

そして2003年6月12日、この映画で主役をつとめたグレゴリー・ペックも亡くなった。87歳。
「ローマの休日」「ナバロンの要塞」「アラベスク」「白鯨」「頭上の敵機」「大いなる西部」などなど。大学時代まで洋画一辺倒だった私にとって、忘れられない俳優の一人である。心からご冥福を祈りたい。

◆あらすじ
 1964年、米ソの対立により勃発した第3次世界大戦は、開戦間もなく終結した。それから数ヶ月、北半球は放射能に覆われすべての人類は死滅してしまった。唯一南半球の一部だけが今のところ放射性降下物の汚染を免れ、オーストラリア・メルボルンには、まだいつものような人の営みがある。

 そんなある日、ドワイト・タワーズ Dwight Towers (Gregory Peck) 艦長指揮下のアメリカの原子力潜水艦ソーフィッシュがポート・フィリップ湾 Port Phillip Bay に浮上する。既にアメリカという国家は消滅している。束の間の休息をとる艦長と乗組員たち。
 メルボルン郊外のフランクストン Frankston 、メアリー・ホルムズ Mary Holmes (Donna Anderson) は、夫ピーター・ホルムズ大尉 Peter Holmes (Anthony Perkins) に、何故彼がブリディー司令官 Bridie (John Tate) に呼ばれたのかを尋ねる。ホルムズはブリディーから、自分が調査隊の乗組員に選ばれたことを知らされる。妻と子どもを残していくことを心配して、ホルムズは調査行がどのくらいの期間なのかと司令官に質問する。ブリディーは4ヶ月間だといい、科学者達の計算では、放射性雲がオーストラリアに到達するまで5ヶ月しか残されていないことを説明する。ホルムズは艦長に報告するが、艦長は調査行について何も語らない。

 ホルムズは妻に、週末を一緒に過ごすため艦長を招待したことを告げ、パーティーを開こうと提案する。メアリーは同意し、タワーズに会わせようと彼らの友人モイラ・デビッドソン Moira Davidson (Ava Gardner) を招待する。モイラは駅に着いたタワーズに会い、パーティに連れて行く。飲み過ぎてしまったイギリスの科学者ジュリアン・オズボーン Julian Osborn (Fred Astaire) が他の客の「世界的な悲劇は科学者の責任だ」という発言に気分を害するまでは、パーティーはうまく行っていたのだが……。オズボーンが相手を罵ったとき、モイラは悲鳴を上げて彼を黙らせ、部屋を飛び出ていく。ホルムズはモイラをなだめるが、彼女は誰かが差し迫った運命について話しているのを聞くことに我慢ができないのだという。パーティの後、タワーズは彼女に、彼とその乗組員が惨劇のとき水中に潜って生き残った様子を話して聞かせる。酔ったモリアはタワーズに近づこうとするが酔いつぶれてしまう。タワーズは彼女をベッドに運ぶ。

 翌日海軍省の本部で、ジョーゲンソン教授 Jorgenson (Peter Williams) が、北半球の降雨と降雪が大気中の放射能を降下させ、生き残った者への脅威を多少は和らげるかも知れないという理論を説明する。司令官はホルムズに対し、今度の調査行はこの理論を試すため可能な限り北へ向かうことであると伝える。モイラは艦にタワーズを尋ねるが、家族のことを現在形で話す彼の癖にますます心を乱されてしまう。モイラはオズボーンに会うが、彼もまた調査行に加わる予定であることを知る。

 ブリディーに呼ばれたタワーズは、誰も生き残っていないはずのサンディエゴの近くから発信されている無線信号が見つかったという驚くべき事実を聞かされる。
 原潜に乗って北へ向かった乗組員が目にしたのは、廃墟と化した都市。建物は元のまま残っているが、街を歩いている人の姿はない。どこまでもどこまでも無人の街……。キャッチした謎のモールス信号は、空のコーラの瓶が風にはためくカーテンの紐に引っ掛かり、無線機に接触して発信されているものだった。潜水艦の若い乗員が、彼の故郷サンフランシスコ沖で、街には誰もいないことそして彼も間もなく死んでしまうことを知りながら、仲間を残して岸へ向かって泳ぎ出す。

 メルボルンの人々はやがて来る死の灰におびえながらも最後の時まで冷静に生活を送る。逃げる場所も助かる方法もないのだから。人々は不安を楽しみで紛らわす。マス釣りの解禁日が早められ、釣りを楽しむ市民達。お酒を飲んで歌を歌う。しかし決してパニックにはならない。例のワルツィング・マチルダが時には陽気に、時にはレクイエムの様に流れる。
 ついに海岸のガイガーカウンターの針が弱くしかし確実に震えはじめた。とうとう人類最後の土地にまで放射能はやってきたのだ。ソーフィッシュがメルボルンに戻って来る頃、放射線症の最初の症例が報告される。
 最初は日常の仕事に向かう人々で溢れていたメルボルンの街路は、精神的な導きを求めて救世軍に向かう人々、政府の配給する安楽死用の薬に列を作る人々という、まったく逆の群集で再び混み始める。

 初産を終えたばかりの若い母親は赤ん坊を抱き薬を拒む。夫がやさしく言う。「この子を健康のうちに生涯を終えさせてあげよう」。アマチュアレーサーとしての夢を果たしたオズボーンは、マシンのコクピットでエンジンをふかしながら薬を飲む。艦長は故郷のアメリカで死のうと希望者を乗せてアメリカへ向け出港する。それを渚で見送るモイラ。

 カメラは誰もいなくなったメルボルンの通りをパンした後、風にはためく横断幕に焦点を合わせる。それは現代社会への僅かな希望と暗黙の警告を示している。
「兄弟よ、まだ時間はある。」 “There is still time... brother.”

(ちなみに、この映画には "THE END" という例のエンド・マークは出ない。)

 悲劇はどうして起こったのか。ソーフィッシュの乗組員がオズボーンの周りに集まり彼らの運命について説明を求めたとき、誰がボタンを押したのか、そして何故押したのかさえ、知っている者は誰も生き残っていなかった。

 オーストラリア人の評論家によれば、最後の部分にオーストラリア人の性格をうまく描写したところがあるという。一つは、二人の男が、終末までに彼らのお気に入りのビンテージ・ワインの貯蔵品を仕上げるのに時間が足りないと嘆くシーン。もっとうまいのは、このような壊滅に向かう状態のもとでさえスポーツ・イベント(このケースでは、フィリップ島グランプリ)を開催し続ける頑固さだそうだ。

監督・製作:スタンリー・クレイマー
原作:ネヴィル・シュート
脚本:ジョン・パクストン/ジェームズ・リー・バレット
出演:グレゴリー・ペック/エヴァ・ガードナー/フレッド・アステア/アンソニー・パーキンス/ドナ・アンダーソン

◆エンド・オブ・ザ・ワールド
実はこの "On The Beach" は、昨年(2000年)にリメイクされた。今度の日本名は「エンド・オブ・ザ・ワールド」。映画での設定は前作「渚にて」とは多少異なる。

2006年。中国の台湾侵略を阻止すべく、アメリカが中国に宣戦布告をした。戦況が悪化する一方の中、中国は遂にアメリカに核弾頭を発射。報復のため、アメリカ側も中国に核爆弾を落とし、北半球は完全に壊滅した。
祖国が全滅必至の中、死を免れたアメリカ海軍の潜水艦が、放射能がまだ届いていない南半球オーストラリアを目指し、メルボルンに到着する。
だが、未来は楽観できなかった。風向きが変り、北半球にとどまっていたはずの放射能が南半球に広がり始めていた。
悲観的な予測がはびこっている中、豪政府お抱えの科学者の一人が、北半球の放射能は、核爆発時に空いたオゾン層の穴から入ってくる紫外線により弱まっているとの楽観説を唱え始め、一縷の望みにかけ、政府はアメリカの潜水艦を北緯60度以北に派遣し、放射能汚染度の計測を命じる。
出航前日、北半球に生存者がいる証拠を、豪政府はつかむ。それは、北のどこかから送られてくる、ビデオ・ファイルが添付されたEメールだった。文字化けのため、ビデオもメールもきちんと見ることはできないが、人がいることは確実。放射能レベルの低下調査の旅は、メール発信者探しという、格段と希望に満ちたものになり、遂に潜水艦は北へ出発した。

2000/07/17

«Can you speak English?»

■覚えるより先に忘れていく
'99年4月末からECCに通った。フリー・タイム・レッスンで初心者に毛の生えたレベル4bから始め、約1年経ってやっと3aまで上がった。60近くなって始めた英会話だから、上達を妨げる最大の要因は減退する記憶力である。
過去に覚えていたことも忘れつつあるのに、新しく英単語を覚えるほどの容量を持った記憶素子を、我が脳は持ち合わせていないようだ。単語などは、覚えるより忘れていくスピードの方が速い。
ECCのテキストには、旅のいろいろな場面で利用できる会話も用意されていたから、それを全部覚えていれば相当のところまで通用するはずだったのだが……しかし、しかしである……

■英語なしで過ごせる一日
1日中夫婦で歩いていると、当然日本語だけを喋っている。地図を持っていれば道を尋ねる必要もない。フード・コートなどで食事を注文するときは、指さして "This one, this one and this one." でこと足りる。
そんな調子だから、まる一日英語らしい英語を使わない日もあるのだ。
ECCのテキストには、こんな例文があったような気がする。

Are you ready to order?
  Yes, I'll have the Caesar salad and the baby back ribs.
Would you like any soup or salad with that?
  I'll have the house salad.
And what kind of dressing would you like?
  What kind of dressing do you have?
We have a raspberry vinaigrette, thousand island, French, and honey dijon. We also have our house dressing which is like a creamy ranch-type dressing.
  I'll have the honey dijon.

しかし、安旅でフード・コードやビュッフェのようなところでしかメシを食ってないと、ウェイターがオーダーを聞きに来るような場面にはなかなかお目にかからない。ああ、こんなシーンを一度体験したかったな。

■宿とバスの予約
宿とバスの座席の予約だけは、英語でやらざるをえない。バスの方は幸いトランジット・センターのカウンターでフェイス・トゥー・フェイスでやることができたが、宿の方は、次の街に電話するしかない。

Hello! Adelaide City Backpackers?
I'm sorry I can't speak English well. So, would you please speak slowly.?

と切り出すと、相手は大体笑いながら応じてくれる。
そこで、メモを見ながら

I'd like to book at your place. Do you have a twin room available for three nights starting from June 8th?
And, if available, with private bath or shower and toilet.

とやるのだ。ほとんどこれでことなきを得た。ちなみにオーストラリアでは、「予約する」は、reserve より book の方が一般的だそうだ。

■オージー・イングリッシュ Aussie English

オーストラリア訛りの英語を「オージー・イングリッシュ」という。単語やスラングにも独特のものがあるが、一番有名なのは、Good day! が「グッダイ」となる発音だろう。
その辺の予備知識はあったのだが、バス・ドライバーの車内案内で、
Please take a coach by a quarter past eight. (8時15分までにご乗車ください。)の 'eight' が、どう聞いても「アイト」と聞こえる。
ツアー会社AATキングズも、「アイアイティー」である。そこまでいう?って感じ。
いずれにしても、バスのドライバーは、非英語圏人種が乗っていることなどまったくおかまいなしに、あのオージー・イングリッシュで早口にしゃべるのだから、聞き取りにくいことはなはだしい。休憩時間、乗車時刻、発車時刻など、その都度訊きなおして確認しなければならなかった。

■下手な英語にも耳を傾けてくれる
そんな苦労をした小生の英語だったが、嬉しかったのは、どんな人でも、こちらの下手な英語に親切に根気よく耳を傾けてくれたことである。
オーストラリア社会はたくさんの国からの移民からなっており、イタリア、ギリシャ、中国、中近東など、英語を母国語としない人も大勢いる。オーストラリア人はそんな人の話す英語に慣れているのだろう。

35日間、大したトラブルも発生しなかったため、この程度の英語でなんとか切り抜けることができた。しかし、次に訪問するときは、もう少し上手く話せるようになっていたいものだ。

2000/07/16

聞きたかった音(声)

オーストラリアに来たら是非聞きたいと思っていた音(声)が3つあった。
第1はディジュリドゥーの音、第2がウォルシング・マチルダの曲、そして3番目がワライカワセミの声だった。
ディジュリドゥーについては別項で詳しく紹介するつもりなので、ここではウォルシング・マチルダとワライカワセミについて触れてみたい。

ウォルシング・マチルダ Waltzing Matilda

私がこの曲の全部を最初に聞いたのは、第3次世界大戦でほとんどの国が滅亡しオーストラリアだけが残ったという設定のSF映画『渚にて』の中だった。テーマ曲としてほとんど全編に流れていたため、今でもメロディーをはっきり覚えている。
オーストラリアでは、オージーの反骨精神を歌い上げた歌として、もともと第2の国歌とも言われるほど人気がある曲だが、この映画によってオーストラリアを代表する曲として世界中にも知られるようになったものだ。
今度の旅でこの曲を耳にしたのは、シドニーの宿で何気なく見ていたテレビ番組の中だったが、何か凄く懐かしい曲を聞いたような気がした。
シドニー・オリンピックの閉会式の最後に、スリム・ダスティという歌手がギター片手に歌ったのをお聞きになった方も多いと思う。

※Waltzing Matilda の発音
「ウォルシング・マチルダ」ではなくて、「ウォルツィング」だろうとおっしゃる方も多いのではないかと思うが、当時どう聞いても『ウォルシング』と聞こえていたし、一般にこのように表示されていたことも記憶しているので、ここではあえて『ウォルシング・マチルダ』と表示することにした。悪しからずご了承いただきたい。

この歌のオリジナルは、1895年にバンジョ・パターソン Banjo Patterson によって作られ、戦場に向かう兵士や、祝いの席、スポーツ・イベントなどで盛んに歌われたが、現在これを含めて3つのバージョンが歌われている。
下に掲げた楽譜と歌詞は、1903年にマリー・コーワン Marie Cowan が書いたもので、もっともポピュラーなものである。


Waltzing Matilda
(by Marie Cowan)
listen here
(Vocal)

Once a jolly swagman camped by a billabong
Under the shade of a Coolibah tree
And he sang as he watched and waited till his billy boiled
You'll come a waltzing Matilda with me

chorus:
Waltzing Matilda, Waltzing Matilda
You'll come a-waltzing Matilda with me
And he sang as he watched and waited til his billy boiled
You'll come a-waltzing Matilda with me

Down came a jumbuck to drink at that billabong
Up jumped the swagman and grabbed him with glee
And he sang as he shoved that jumbuck in his tucker-bag
You'll come a-waltzing Matilda with me

Up rode the squatter mounted on his thoroughbred
Down came troopers one two three
Whose that jumbuck you've got in the tuckerbag?
You'll come a-waltzing Matilda with me

Up jumped the swagman and sprang into the billabong
You'll never catch me alive said he
And his ghost may be heard as you pass by that billabong
You'll come a-waltzing Matilda with me.

Dictionary
Swagmana drifter, a hobo, an itinerant shearer who carried all his belongings wrapped up in a blanket or cloth called a swag.
Billabonga waterhole near a river
Coolibaha eucalyptus tree
Billya tin can with a wire handle used to boil water in
Jumbucka sheep
Tucker Baga bag for keeping food in
Squattera wealthy landowner.
Troopera policeman, a mounted militia-man.


ワライカワセミ Kookaburra

学生時代、手作りの短波受信機でアマチュア無線や世界の日本語放送を追いかけたことがあった。
その頃短波ファンの間でもっとも人気があったのが、毎日19時から9.76MHzでメルボルンから送られてくるラジオ・オーストラリア Radio Australia の日本語放送だった。
放送開始直前のインターバル・シグナルでこのワライカワセミの鳴き声とウォルシング・マチルダの曲が流れ、そのあと軽快な開始音楽に続いて日本語番組が始まる。この辺の粋な演出が人気の原因だったのだと思う。
性能のよくないラジオのチューナーを捻りながら、必死になってこの音を探したのを覚えている。
この日本語放送も、今では行なわれていない。ちょっと残念である。

◆懐かしのラジオ・オーストラリアの音声
もしやと思ってWeb上で探していたら、やはり見つかった。
現在シンガポール在住のTさんのサイト。
当時人気のあった世界中の短波放送の録音テープをお持ちで、そのいくつかを公開されている。
メールでお願いしたところ快くご了解をいただいたので、あの懐かしい音声をご紹介できることになった。
Tさん、ありがとうございます。
《これらの音声は、一切転載を禁じます!》
インターバルシグナルとワカイカワセミ(RA file)
開始アナウンスと開始音楽(RA file)
日本語放送開始アナウンス(RA file)

※これらの音声をお聞きになるには、RealPlayer が必要です。※
こちらからダウンロードしてください。

Kookaburra は、体長約45センチ、体重500gの大型の鳥。大きな四角い頭と巨大なくちばしを持つ最大のカワセミ。英語では Kingfisher と呼ばれるが、魚を採ることはなく、小動物や大きな昆虫、トカゲなどを食べる。
上空から舞い降りて、ヘビの頭を咥えて高く飛び上がり、地上に落としたり木の枝に打ち付けたりして殺して食べることもある。
しかし、何と言ってもこの鳥の特徴はその奇妙な鳴き声にある。他の鳥とテリトリーを争う時などには、人間の笑い声にそっくりなけたたましい声で泣き叫ぶ。これが『ワライカワセミ』 Laughing Kookaburra と呼ばれる由縁なのである。

街の中を歩くのが多かった今回の旅では、残念ながらワライカワセミの声はおろか姿も目にする機会もなかった。帰ってきてWeb上で見つけて拝借したのが、次の写真とサウンド・ファイルである。


(WAV file)

2000/07/15

«何飲む? ビール、ウィスキー?»

元来酒好きの我々夫婦。たくさん飲んで帰って、薀蓄(うんちく)を傾けたい、と思っていたのだが、意外なことにビール以外の酒はそれほど飲んでいない。(スコッチの水割りは結構飲んだが……)
酒のページを作ってしまったので、ほんのちょっぴりオーストラリアのビールについて触れておこう。

オーストラリア人はビールが大好きなようだ。ほとんどお茶やコーヒーを飲むような感覚で、昼のまだ日の高いうちからやっている。
我々もそれに習って、道端のカフェ・テラスでよくビールを飲んだ。ボトル・ショップで買って帰ってホテルの部屋でもよく飲んだ。
一番よく飲んだのは、フォーエックスゴールド XXXX Gold かな?ちょっと甘め。お気に入りは、フォスターズ Foster's Super Bitter 。Foster は、F1のスポンサーにもなっているからご存知の人も多いはず。なんとなくいい香りのビールだ。万人向きでどこにでもあるのが、緑色の缶のビクトリア・ビター Victorian Bitter (通称VB)。ボトル・ショップで買えば、1缶1.5ドル前後。カフェやパブだと1杯2.5ドルくらいだった。



オーストラリア政府観光局のメール・マガジン『月刊・旅たびOZ(オージー)』2001年6月号に、オーストラリアのビールについての記事が掲載された。その全文をご紹介する。《こちらをクリック

パブのテーブルでウィスキーやビールを飲むときは、おかわりのたびにカウンターに行ってお金を払わなければならない。後でまとめて、といかないのがちょっと不便なところ。
また、スーパー・マーケットでは酒を置いていないところが多かった。

※コーヒー
話は酒から外れるが、ついでに、毎日のように飲んだコーヒーの話をしておこう。
我々が飲んだのは、常にロング・ブラック Long Black 。これはいわゆるブラック・コーヒーのこと。1杯2ドルちょっとだった。
これと対照のホワイト White またはフラット・ホワイト Flat White があるが、こちらはミルク入りのコーヒーのこと。「コーヒー」とだけ注文すると、"Black or white?" と訊かれることがある。
しかし、オージーに一番人気があるのは、どうもカプチーノ Cappuccino らしい。コーヒーに泡立てた牛乳をたっくさん入れて、粉のチョコレート(ココア・パウダー)をふったもの。
ケアンズで面食らってしまったのがオーストラリアのアイス・コーヒー Iced Coffee 。日本風にコーヒーに氷を入れたもののつもりで注文したら、出てきたのは全然別物。コーヒーにアイスクリームが浮いており、ご丁寧にその上にたっぷりと生クリームが乗っかっている。若い女の子は喜ぶかもしれないが、小生、それっきり Iced Coffee を注文することはなかった。

2000/07/14

Down Under



オーストラリアの隠れた人気土産物のひとつに、南北が逆になった(当然東西も)世界地図があるのをご存知の方も多いと思う。
私も、シドニーのロックスの土産物屋で見つけて買った。$8.95だった。
右の写真がそれだが、横90cm×縦60cmほどの大きな地図をデジカメで撮影して縮小したので、皺だらけだしちょっと見づらくなってしまった。

ご覧のように、オーストラリアとニュージーランドが真ん中上部に描かれ、日本や中国・ロシアはずっと下の方にある。

英語で "down under" とは、オーストラリアとニュージーランドのことをいい、辞書にもちゃんと出ている。(北半球の人間が使う)普通の地図の「下の方」にあるから、そう呼ばれるようになったのである。

しかし、南半球に移り住み「国家」としての体裁が整ってくるにつれて、これでは面白くないと考える人が出てきた。そこで生まれたのが、オーストラリアとニュージーランドを上において北半球を下に置いた地図なのである。この地図は半分(いや、ほとんど)ジョークで、実際に使われているのは、我々と同じ北が上の地図なのだが、オーストラリア人やニュージーランド人の心意気が感じられて面白い。

この地図には、次のようなコメントが書かれている。

  No apologies are called for in presenting this map with south at the top. The convention of "north-up" was established a few centuries ago because of the use, by northern hemisphere navigators and surveyors, of the northern polar star "Polaris" and the magnetic compass.
  Indeed, in earlier times east was placed at the top of maps and this was the origin of the term "Orientation".
  After hundreds of years of development, southern lands have no reason to be "below" the northern hemisphere countries.

要約するとこうなる。

南を上にしたこんな地図を作ったって、なんの問題もないだろ。もともと「北を上」にする習慣って奴は、何世紀か前に、北半球の探検家や測量士の連中が北極星と磁石を使うために作ったもんだ。
実際、もっと前にゃ東が上の地図だってあって、こいつが「オリエンテーション」 "orientation" の語源になったくらいなんだ。
今じゃもう、南の国が北半球の「下」にある理由はないってぇわけよ。

※上の文章には、「北極星」 "Polaris" の語源となった "polar" は、本来「南」の極を意味する言葉であって、「北の極」は "arctic"。それなのに何故北極星を "Polaris" というんだ? という意味も込められている。

2000/07/12

世界一の一枚岩?

以前、エアーズ・ロックについてのガイドブックなどでは、これが『世界一の一枚岩』であるとの表現がされていたことがあった。今では、こうした表現はあまり見かけなくなったが、エアーズ・ロックが世界一であるという誤解は、未だにここを訪れる観光客の多くに残っており、確かに何もないだだっ広い大平原の中に忽然と現れるその姿を見たとき、『世界一の一枚岩』を見たかのような感動にとらわれるのも事実である。

しかし最近では、『世界一の一枚岩』は、同じオーストラリアにあるマウント・オーガスタスだと言われている。
今回の我々の旅では訪れることはなかったが、この『一枚岩』についてもちょっと紹介しておきたい。


マウント・オーガスタス Mount Augustus。アボリジニのワジャリ Wadjari 族の人々にバリングラ Burringurrah として知られている山は、(西オーストラリア州)パースから850km、the Great Northern highway と North West Coastal highway の途中にある。世界中で最も素晴らしい独立した弧峰の一つであり、アカシア類 wattles 、桂類 cassias 、eremophilas などの潅木の生えた、石がごろごろした赤い砂の平原に、858mの高さで聳えていて、海抜は1105mある。
1858年6月3日、ヨーロッパ人として初めてこの山に登ったフランシス・グレゴリー Francis Gregory が、彼の兄オーガスタス卿 Sir Augustus Charles Gregory の名前にちなんで名付けたものである。

岩そのものは、長さ約8km、底面積が4795ヘクタールあり、(体積では?)エアーズ・ロックの約2.5倍のサイズで、そういう意味では、世界で最も大きな「岩」である。
マウント・オーガスタスの岩は、約10億年以上前の原生代初期に古代の海底に砂や玉石が堆積して生まれた。これらの堆積物は砂岩や礫岩の地層を造り、地殻の変動で収縮され隆起した。この砂岩と礫岩は、35km西南西にあるマウント・フィリップ Mount Phillip を含む広い地域を覆っている。マウント・オーガスタスの下にある花崗岩は、16億5千万年前のものであって、サイズでエアーズ・ロックの2.5倍というだけでなく、古さでもそれを凌いでいるということができる。

ところで、『世界一』大きな一枚岩って何を基準にいうんだろう?

一般的には、地表に見えている「体積」で評価しているのだろうが、エアーズ・ロックもマウント・オーガスタスも、ノーザン・テリトリーに転がっているデビルズ・マーブル Devil's Marbles のように地表に「ポコッ」と浮いているわけではない。我々が見ているのはそのごく一部であって、地下にはその何倍、何十倍の岩が潜り込んでおり、ず~っと『いちまい』なのである。
(エアーズ・ロックの成り立ちについては、付録:Uluru and Kata Tjuta/A Geological History をご覧いただきたい。)
隠れている下の部分まで測れば、どちらが大きいか分からない。計測は地質学の先生にお任せするしかない。
これが、『世界一高い』とか、『世界一大きな丸石』(笑)というのであれば、その評価もしやすいのだろうが。

さてさて、そんな議論はどこか別のところでやっていただくとして、私達が訪れたエアーズ・ロック(ウルル)は、その形状と置かれた状態からして、やはり『世界最大級』の岩の一つであったことは間違いないのだ。

2000/07/11

«安宿のすすめ»

海外旅行の宿泊はホテル、と決めてかかっていたら、今回の旅は実現していなかっただろう。
「食事」の項でも書いたが、宿泊費は旅行費用の最大の支出項目。ABC分析で検討すれば、真っ先に削減の対象となる部分である。
トータル・コストを固定し、旅行の期間を最大に長期に持っていこうとすれば、食費と宿泊費を切り詰めるしかない。しかし、この項目は、『女性』である家内にすれば、旅行に期待するかなり大きな要素になるはずだ。
こうして、小生のオーストラリア宿泊事情の情報収集活動が始まった。(ちょっと、大袈裟???)

通っていたECCのレッスンの中で、Backpackers Hostel や B&B という言葉は聞いたことがあったが、恥ずかしながらそれが実際にどんなものか分からない。Youth Hostel は、40年近く前学生時代に国内で体験したことはあったが……。

安宿の種類は? 価格は? 泊まり心地は? 予約はどうすれば? 旅行関係のホームページを巡って、宿泊施設 Accommodation の情報を漁り、人様の体験談を読むうちに、おぼろげながらオーストラリアの宿泊事情が見えてきた。
そうやって得た情報をもとに予算を設定し、最終的な旅行計画が完成。家内にその全容を話してめでたく実行の運びとなったわけである。

■オーストラリアの安宿

今回の旅で最高にお世話になった『地球の歩き方』オーストラリア版を抜粋すると、オーストラリアの安宿事情は次のとおり。

◆バックパッカーズ・ホステル Backpackers Hostel
バックパックを背負ってエコノミーな旅をする人に人気なのが、その名のとおりのバックパッカーズ・ホステル。主要な街の割と便利な場所にあって、料金も格安。世界各国からいろんな旅人が集まってくるので、旅の情報収集にも便利だ。
一般に、シャワー、トイレ、キッチンが共同で、部屋はドミトリー(4~8人の相部屋)、シングル、ツインがある。宿泊料は、ドミトリーが1泊$12~16、シングル$15~35、ツイン$25~45といったところ。
VIP会員には$1~2の割引がある。ワーホリ君たちは、略して『バッパー』と呼ぶ。

◆ユース・ホステル Youth Hostel
世界中でバックパッカーズに愛用されている安宿の代表格。オーストラリア全土に、準加盟ホステルも合わせて150以上ある。
部屋は、基本的にドミトリー($10~16)だが、最近はツインも増えてきた。
原則として会員しか宿泊できないので、旅の前に日本または現地のユース・ホステル協会で会員になっておくこと。

◆プライベート・ホテル Private Hotel

個人経営のこじんまりしたホテル。日本の民宿みたいなもの。トイレ、シャワーは共同の場合が多い。リビング・ルームで、宿の主人や泊り客との交流もできる。
朝食付きのところも多く、その場合はB&B Bed and Breakfast という。料金はB&Bシングル$30~50、ツイン$35~60.

◆モーテル Motel
車なしでも泊まれる。どちらかといえば、町の入り口や大きな道路沿いにある。ほとんどがツインで、シャワー、トイレ、TV、冷蔵庫付きが多く、場合によってはキッチン付きも。$40~100。

◆バジェット・タイプ・ホテル Badget Type Hotel
パブとホテルが併設されたホテルで、数的にはオーストラリアで最も多い。1階がパブ、2階以上がホテルとなっている。夜遅くまで騒がしい難点はあるが、ロケーションの良さと値段の安さが魅力。
シングル$20から40、ツイン$30~60。

■泊まった宿

夫婦で旅行するのだからドミトリーというわけにはいかず、すべてツインかダブル。重い荷物を背負っているので、バスのターミナルから近いか、ピックアップ・サービス(空港や駅までの送迎)のあるところ。夜の到着になる場合は、レセプションが遅くまで開いているところでなければ。そして、可能ならば室内シャワーのあるところが……。
予算は1泊60ドル。エアーズロック・リゾートは宿泊施設が限定され122ドルかかる。シドニーは大都会でちょっと高めになる。だから、ほかの街の平均は1泊50ドル程度で抑えなければ。
こんな条件設定で、あらかじめ各都市の宿を2、3候補に絞り込む。本当は、行き当たりばったりに、その街に着いてから宿を探してみたかったのだが……。

電話をしたら満室だったり、シャワーが付いてなかったりで、実際に泊まった宿はすべて『地球の歩き方』に掲載された宿から選んだものになった。

■宿の予約

ケアンズとブリスベンは、日程変更の可能性もないので、日本からインター・ネットで行った。
ケアンズの Inn The Tropics とブリスベンの Soho Motel はホーム・ページを開設しており、それぞれの予約のページから予約が可能。但し、クレジット・カードの番号を問い合わせてくるので、セキュリティを考えてそれにはFAXで対応した。
後は、次の街へのバスを確保してから、その街の宿を探すことになる。
朝早く着くのであれば、着いてから足で歩いて部屋を見せてもらって探すのが一番いいのだが、重い荷物を背負って歩き回るのもシンドイ話だ。
E-mailによる予約が可能なところもあるが、2、3日しか滞在しない街でインターネット・カフェが込んでいたりすると、実用的ではない。FAXを借りて行う方法もあったが、実際には利用しなかった。残された方法はただ一つ、電話しかない。

電話をかけて、先ず、

Excuse me. I can not speak English well. I'd like to book at your place.

と切り出す。これで大体ゆっくり対応してくれる。FAX用に作成しておいた Reservation Form を見ながら一項目ずつ希望を伝える。大体問題なく話ができた。
アデレードからパースの宿に電話した時、同様に始めると、
"Which language do you speak?"
と返ってきたので、"Japanese" と答える。「それでは、日本語でどうぞ」と来た。助かった。レセプションの Keith 君は、ベルリッツ Berlitz 大阪・本町校の元講師だった。

前にも書いたが、安ホテルの場合はレセプションが早く閉まってしまうところが多い。朝も、8時ごろにならなければ開かない。
特に到着時間が夜になるときは、レセプションが何時まで開いているかを確認する必要がある。
アリス・スプリングスからタウンズビルに向かうバスが大幅に遅れ、タウンズビルのトランジット・センターに到着したのは宿のレセプションが閉まる直前。電話してこれから向かう旨を伝え、重い荷物を背負って宿まで走ったこともあった。

タバコは有害です

喫煙環境の厳しいオーストラリアでも、毎日欠かさずにタバコを吸った。銘柄は、フィリップ・モリスのピーター・ジャクソン Peter Jackson。そこで毎回お目にかかったのが、タバコのパッケージにしつこいほどに書かれているウォーニング・メッセージ Government Warning Message である。
オーストラリア国内で販売するタバコには、次の6種類のいずれかのメッセージの表示が義務付けられていて、その表示スペースについても、パッケージ全体の面積に対する割合などが細かく規定されている。
興味のある方は、ご自分で訳してみていただきたい。

日本の

あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう
喫煙マナーをまもりましょう


に比べて、格段に厳しい警告メッセージがびっしりと書かれているのである。
この警告によってどの程度喫煙が抑制されているかは、定かではないのだが……

1. SMOKING CAUSES CANCER

Government Health Warning
SMOKING CAUSES LUNG CANCER


Tobacco smoke contains many cancer-causing chemicals including tar. When you breathe the smoke in, these chemicals can damage the lungs, and can cause cancer. Lung cancer is the most common cancer caused by smoking. Lung cancer can grow and spread before it is noticed. It can kill rapidly. For more information, call 132130.
Government Health Warning

2. SMOKING IS ADDICTIVE

Government Health Warning
SMOKING IS ADDICTIVE

Nicotine, a drug in tobacco, makes smokers feel they need to smoke. The more you smoke, the more your body will depend on getting nicotine and you may find yourself hooked. It may be difficult to give up smoking once you are hooked on nicotine. For more information, call 132130.
Government Health Warning

3. SMOKING KILLS

Government Health Warning
SMOKING KILLS


In Australia, tobacco smoking causes more illness and early death than using any other drug. Tobacco smoking causes more than four times the number of deaths caused by car accidents. For more information, call 132130.
Government Health Warning

4. SMOKING CAUSES HEART DISEASE

Government Health Warning
SMOKING CAUSES HEART DISEASE

Tobacco smoking is a major cause of heart disease. It can cause blockages in the body's arteries. These blockages can lead to chest pain and heart attacks. Heart attack is the most common cause of death in Australia. Smokers run a far greater risk of having a heart attack than people who don't smoke. For more information, call 132130.
Government Health Warning

5. SMOKING WHEN PREGNANT HARMS YOUR BABY

Government Health Warning
SMOKING WHEN PREGNANT HARMS YOUR BABY


Poisons in tobacco smoke reach your baby through the bloodstream. If you smoke when you are pregnant, you greatly increase the chance of having a baby of low birth-weight. Smoking may lead to serious complications which harm your baby. For more information, call 132130.
Government Health Warning

6. YOUR SMOKING CAN HARM OTHERS

Government Health Warning
YOUR SMOKING CAN HARM OTHERS


Tobacco smoke causes cancer and poisons people. People who breathe in your tobacco smoke can be seriously harmed. Your smoking can increase their risk of lung cancer and heart disease. Children who breathe your smoke may suffer asthma attacks and chest illnesses. For more information, call 132130.
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手巻き煙草

ちなみに、オーストラリアでは手巻き煙草を吸っている人が多い。市販のフィルターのついた紙巻煙草は高すぎて手が出ないのか。私の愛用したピーター・ジャクソンは、30本入り$8(約560円)位した。
これに比べて、煙草の葉だけ入った50グラムのパックだと$12位。これで、うまくいくと100本は巻けるそうだ。
若いワーホリ君が手巻き煙草を吸っているのを見かけたが、戦後、親父が三省堂のコンサイスの紙で煙草を巻いていたのを思い出し、なんとなく抵抗を感じたのは歳のせいであろうか。

2000/07/10

南十字星 Southern Cross

オーストラリアは空気が澄んでいるせいか、星空が素晴らしくきれい。「降るように」という表現がまさにぴったりの星の数だ。特に夜行バスで走っていると、バスの窓からでも肉眼で天の川 Milky Way がはっきり見える。本当に白く光っている。子供の頃に田舎で見て以来、最近は日本ではこんなきれいな星空は見る機会がなくなった。
星座には詳しくないが、北の空にはオリオン座が見つかる。南じゃなくて北なのですぞ。何しろここは南半球なのだから。但し、日本で見るのとは向きが逆さま。日本の南の空に見えている星座は、すべて北の空に逆立ちして見えるのだ。

ところが、南半球に来て誰もが見たいと願う「南十字星 Southern Cross 」がなかなか見つからない。ガイド・ブックには、必ず「ニセ十字に注意」と書いてある。一応十字型に並んだ4つの星は見つかった。しかし、それがニセモノなのか本物なのかが分からない。
レスト・ストップの時にバスの運転手に尋ねてみたが、たまたま地平線近くに下がっている時で建物の影になっていたり、ガソリン・スタンドの照明が明るすぎたりで、見えないという。
ようやく確認できたのは、オーストラリアに入って10日以上も経った夜だった。
なるほど、ニセ十字の方が大きくはっきりしている。何故こっちがニセモノ?という感じである。本物の方はこじんまりとした、あまり目立たない存在。天の川の光芒の中にひっそりと光っている。誰が見つけて名付けたのだろう。
そもそも「南十字星」は、北半球の北極星と違って、真南にあるのではなく、天の南極からはかなり離れている。従って季節や時間によって南の空を大きく回転している。「ニセ十字」はもっと天の南極から離れているため、ニセモノの座に甘んじているのかもしれない。


一度見つけてしまえば、探すのは割と簡単。本物の側にはケンタウルス座のアルファとベータというふたつの明るい星が輝いており、このふたつの星の間隔を2倍くらい延ばしたところに南十字星が見つかる。
南十字星は4つではなく5つだ。オーストラリアの国旗にも、右下の小さな星を含めて5つの星が描かれている。
ところで、左の(ユニオン・ジャックの下の)大きな星は何だろう? 位置からすると「ベータ星」なのだが……などと、ず~っと考えていたのだが、これはオーストラリア7州を表す七稜星「連邦の星」なのだそうだ。

ついでの話だが、南十字星に接して「コール・サック(石炭袋)」と呼ばれる黒い部分がある。白くぼんやり光る天の川の中で、星の少ない部分が黒く浮かび上がって見えているのだ。アボリジニのある部族では、これをエミューが卵を抱く姿と見ているそうだ。

2000/07/05

Cairns_6

7月3日(月)
10時にチェック・アウトを済ませ、ちょっと早いがタクシーを呼んでもらって空港へ。昨日市内の免税店で買った品物を免税品カウンターで受け取る。7月からこの方式に変わったらしい。品物には厳重に封がしてあり、出国手続きが終わるまで絶対に開けてはいけないそうだ。
普通の店で買った品物にかかるGST(消費税)の旅行者への払い戻しについて質問すると、払い戻しは300ドル以上の買い物をした場合にしか適用されないという。100ドルも使っていない我々には、無縁の話だった。
出国手続きを済ませ、免税店で残ったキャッシュを消化する。コーヒーを飲んだり、雑誌を買ったりして、手元に残ったのは数枚のコインだけ。トラベラーズ・チェックの方は、今度来るときのために残しておこう。

12時45分、JL768便離陸。長かったオーストラリアの旅も終わった。

2000/07/02

Cairns_5

7月2日(日)
朝から、買い残した土産物を買うため街へ出る。今日は地図なしで歩ける。「岡田屋」に寄ると、ここでも店長が「お帰りなさい!」。お奨めのビーフ・ジャーキーをたくさん買い込んだ。
今日がオーストラリア最後の日。のんびりと散歩を楽しむ。日本語の使えるインターネット・カフェに寄ってみたが、相変わらずの満員。あと一日だからいいか、とあっさり諦める。南の方が寒くなってきて、暖かいケアンズはますます日本人で混んできたようだ。
宿に戻ってゆっくりし、夕飯を食べようと外に出ると、今日は日曜日で近くのレストランはほとんど休み。仕方なく、隣りのモーテルのバーに入って、これまた最後のウィスキーを何杯か飲む。ガソリン・スタンドのコンビニで買った食材でどうにか夕食を済ませた。

2000/07/01

Cairns_4

7月1日(土)
1ヶ月前、初めてのオーストラリアの旅で南へ向かった国道1号線を、今度は北上する。沿線には、見覚えのある風景が流れていく。
午後4時半頃、ケアンズに戻ってきた。今日の距離404キロ、所要時間僅か6時間弱。この旅の中で一番短い最後のバス移動だった。
タクシーで宿に入る。以前泊まった Inn The Tropics 。「お帰りなさい」と言われ、なんとも懐かしい感じ。但し、今日からGSTが適用されて、前より10%高くなっている。今度の部屋は2階で、明るくて快適だ。

夕食を食べようと外に出て、近くのステーキ・ハウスのメニューを覗いていると、おじさんに呼び込まれた。「おいしいか」と聞くと、「保証する」という。入り口のドアには、日本語で「ようこそ」と書いてある。
お奨めの350グラム、20ドルのヒレ・ステーキをオーダー。それにパンとポテトと赤ワインを一本。Excellent! すごく柔らかくておいしい。これで、締めて2人で$80、約5500円ちょっとだった。
久し振りにゆっくりシャワーを浴びて寝る。

Townsville->Cairns

7月1日(土)
10時45分、バスに乗車。とうとう最後のバス旅となった。ケアンズまではわずか400キロ、5時間半しかかからない。
1ヶ月前、ケアンズからブリスベンまで、初めて走ったハイウェイを、今度は北へ向かって走る。あと少しだ。

2000/06/30

Townsville2

6月30日(金)
タウンズビル Townsville は、ケアンズの南約350kmに位置する人口13万人の美しい街。'dry tropic' と呼ばれるノース・クイーンズ・ランドにあって、晴天日数は年間320日にのぼるという。1864年に開設され、後にシドニーのビジネスマン Robert Towns にちなんで名づけられた。
タウンズビルには、1896年(明治29年)初めて日本の領事館が開かれた。
当時、クイーンズランド州の沿岸地帯に広がるサトウキビ畑で働く日本からの出稼ぎ労働者が多く、この街には900人もの日本人が住んでいた。
1908年領事館はシドニーに移ったが、その後も代々名誉総領事をつとめたグリーン家が、今では史跡記念物になっている。
クイーンズランドのサトウキビについては、こぼれ話シリーズ第9話「サトウキビ鉄道」を参照されたい。

久し振りにクイーンズ・ランドに戻ると、太陽の光がまぶしい。
朝、洗濯を済ませて、トランジット・センターに寄り、ケアンズまでの最後のバスの座席を予約。残りのキロ数を確認すると、充分残っていた。

ロス・クリーク Ross Creek にかかる歩道橋 Victoria Bridge を渡って、フリンダーズ・モール Flinders Mall へ。南側の白いT&Gビルと北側の中央郵便局G.P.Oの2つの時計台を持つ建物の間、約300mがモールになっている。【写真右】G.P.Oから北東に Flinders St. East を歩くと、両側に洒落たレストランやコロニアル風のパブ、バックパッカーズなどが並んでおり、この辺までが市街地といった感じか。
ロス・クリーク沿いの道をブラブラ進むと、右側にトロピカル・クイーンズランド博物館と世界有数の巨大水槽のあるリーフ・エイチ・キューがある。時間つぶしに博物館だけのぞいてみた。

左に折れて Kings St. をほんのちょっと進み、海沿いの公園アンザック・メモリアル・パーク Anzac Memorial Park にぶつかる。【写真左】公園からクリーブランド湾に沿って続く通りが、ザ・ストランド The Strand 。ちょうど今日からスクール・ホリデーに入っていて、BBQを楽しむ家族連れや、先生に引率されて海辺で砂遊びに興じる子供たちが大勢いる。
我々も靴を脱いで砂浜を歩き、途中で買ったサンドイッチで昼食にした。

宿に帰って、廊下でタバコを吸っていると、一人旅の日本人、22歳のI君と会う。若い頃バイクでアメリカを横断したお父さんにあこがれ、今こうしてオーストラリア一周の旅に出たのだという。感じのいい、かっこいい青年だ。
宿の裏、パルマー・ストリート Palmer St. にあるバー&レストランに夕食に誘う。我々はスコッチ&ウォーター、彼はビール。
I君に話しかけてきた酔っ払いのおじさんが、いつの間にか同じテーブルに居座る。チェコからの旅行者で楽しい人だが、相当酔っていて英語がほとんど聞き取れない。
10時半を回ったところで、チェコ氏をI君にまかせ、バイク旅行の安全を祈って宿に戻った。

2000/06/29

Townsville1

6月29日(木)
バスは、20時30分、約1時間遅れでタウンズビルのバス・ターミナルに到着。ホテルに、バスが遅れてこれから向かう旨を連絡すると、レセプションは8時半まで、すぐ来いという。
重い荷物を背負って走るようにして駆け込む。どうにか間に合った。毛布2枚を借りて部屋に上がったら、ベッド・シーツが1つ分しかセットされていない。慌ててレセプションに駆け下りると、既に閉まっている。中身がこぼれそうなぼろぼろのマットレスの上で1晩寝る羽目になってしまった。名前は、アドヴェンチャー・リゾート Adventure Resort とかっこいいが、やはり値段だけのことはある(ツイン$31)。
持っていたインスタントもので夕食を済ませ寝てしまった。

2000/06/28

Alice Springs

6月28日(水)
昨夜泊まった宿は、メランカ・ロッジ・バックパッカーズ Melanka Lodge Backpackers 。ここは一泊だけなので、朝起きて夕方バスに乗るまでの、僅かな時間の滞在となる。
アリス・スプリングス Alice Springs は、北のダーウィンから南のアデレードまでオーストラリアを南北に貫くスチュアート・ハイウェイの中間に位置し、周囲をマクドネル山脈 Macdonnell Ranges に囲まれている。19世紀末に誕生したフロンティア都市だ。
1871年電信敷設工事の測量のためにこの地を訪れた測量技師が、当時アボリジニの間でツリアラと呼ばれていた泉を見つけ、当時の電信総監チャールズ・トッド Charles Todd の妻の名にちなみ『アリスの泉』と名付けたという。
事実、レッド・センター Red Centre と呼ばれるオーストラリアの中央部を旅してここにたどり着いた人にとっては、文字どおりオアシスを見つけたような気持ちになる。

宿を出て、荷物をグレイハウンドのターミナルに預け、街の中をぶらつく。街の中心部は実に小さい。およそ300m四方の中に、郵便局や銀行、商店、レストランが並んでいる。中心は、トッド・モール Todd Mall 。カフェ、レストラン、お土産屋などが並び、一日中賑わっている。モールの中ほどにある屋外ステージでは、地元高校のオーケストラの演奏会が行われていた。
また、アボリジナル・アーツや工芸品の店もたくさんあり、ユーカリの樹の皮に絵を描いたバーク・ペインティング、モダンなデザインのネッカチーフやテーブル・クロスなどが置いてある。
アボリジナル・ランド Aboriginal Land に近いこのあたりでは、街の中で見かけるアボリジニの人達も多い。しかし、一般的には定職に着いていないようで、いつもブラブラでしているか、公園や広場でたむろしている。

モールの真ん中の角にあるアリス・プラザ Alice Plaza は、アトリウムのある洒落たショッピング・センター。モールの1本西側の通り、ハートレー・ストリート Hartley St. のGPOの斜め向いには、あのウールワースが入ったイェペレニー・ショッピング・センター Yeperenye Shpping Centre がある。例によって、ここのフード・センターで早めの夕食をとる。

17時15分、アリス・スプリングスのターミナルを出発して、次の宿泊地タウンズビルに向かう。移動距離約2050km。途中、テナント・クリーク Tennant Creek で乗り換えて、所要時間は約26時間。今までで2番目の長距離移動となる。
ダーウィンに向かうワーホリの連中が何人か乗っている。エアーズ・ロックに登ってきたらしく、大感激の様子。
西の空の夕焼けがきれいだ。

2000/06/27

Ayersrock4

6月27日(火)
5時前、部屋のキーをレセプションの外のキー・ボックスにほおり込んで、ツアー・バスを待つ。外はまだ真っ暗である。
今日は、エアーズ・ロックを発って、キングス・キャニオン Kings Canyon からアリス・スプリングス Alice Springs へ行く。旅もいよいよ終わりに近づき、あとは帰国の飛行機に遅れないように、ケアンズにたどり着くだけだ。

エアーズ・ロックを出て、まだ明けやらぬラセター・ハイウェー Lasseter HWY を東に。右手にマウント・コナー Mt. Conner を見ながら、レッド・センターをただただひた走る。そういえばまだ朝飯前、と思ったところでバスが一時停車。サンドイッチとコーヒーで朝食。ハイウェーを外れ、アンガス・ダウンズ Angas Downs を経て、9時30分にキングス・キャニオン・リゾートに到着する。約300km走っている。

キングス・キャニオンはワタルカ国立公園 Wtarrka National Park の中にあって、中央オーストラリアの中で最も壮大な光景をもつと言われているところ。切り立った崖の高さは最高270m。その岩肌はクリーム色から深紫色まで、実にさまざま。
ちょっと規模は小さいかもしれないが、グランド・キャニオンのオーストラリア版といったところだ。
峡谷の崖の上に上りぐるっと一周するザ・キングス・キャニオン・ウォーク The Kings Canyon Walk (所要時間3~4時間)と、峡谷の谷を歩くザ・キングス・クリーク・ウォーク The Kings Creek Walk (同1時間)があるが、小生一昨日のエアーズ・ロック登坂に懲りて、クリークの方を選んだ。(当然、家内も一緒)
ガイドの説明を聞きながらトレイルを歩く。崖から落下したと思われる大小の石が転がり、その合間にこの地方特有の珍しい草木も生えている。
崖の上を見上げると、豆粒のように見える人たちが手を振っている。家内が、「うらやましい~っ!」。
リゾートエリアに戻り、「自前の弁当」を食べて、キャニオン・ウォーク組の帰ってくるのを待つ。我々より年配のご夫婦とお嬢さんの日本人3人組に出会った。頑張って崖の上を歩いてきたそうだ。

13時15分、エアーズ・ロックに戻る人達と別れて、バスはアリス・スプリングスへ向けて出発する。あと約320キロだ。
途中からオフ・ロードに入り、赤土のガタガタ道を驀進する。普通仕様の観光バスでオフ・ロードの道を走るなんて、いかにもオーストラリアらしい。対向車はめったに見かけない。カンガルーの死骸に鳥たちが群がっている。
緑の林が現れたと思ったら、迂回路の標識。何日か前の大雨でパルマー川 Palmar River が溢れ、道路が冠水したままらしい。バスは水溜りを避けながら、体を揺らして川を越える。しかし、久し振りに木の緑と川の水面を目にして、心が洗われるような気持ちを感じた。

100キロ以上のオフ・ロード走行を終えて、バスはようやくスチュアート・ハイウェイ Stuart HWY に入る。この道は南のアデレード方面から北のダーウィンへ、オーストラリアを南北に貫く幹線道路だ。
アリス・スプリングスまであと4、50キロという地点で、バスに急ブレーキがかかる。運転手の無線連絡を聞いていると、オイル系統の故障でオーバー・ヒート気味だと報告している。おいおい大丈夫かい?
そんなこんなで、1時間近く遅れてアリス・スプリングス到着。乗客それぞれが予約しているホテルまで送り届けてくれる。

2000/06/26

Ayersrock3

6月26日(月)
今日のツアーは14時半出発。午前中はのんびりと過ごす。
郵便局に行って、今まであちこちで買い込んだ土産品の一部を、神戸の家内の姉に送る。2、3日後に気が付いたのだが、ここで辞書を忘れてしまった。日本出発の前に買った三省堂の「デイリコンサイス英和・和英」。送り状に宛名を書いていたカウンターに置き忘れたらしい。3000円もしたのに。もったいない。

14時30分、オルガス&エアーズ・ロック・サンセット・ツアー Olgas & Ayers Rock Sunset Tour に出発。
エアーズ・ロックが一つの岩なのに対し、オルガスは36個の岩の寄せ集まり。バスが近づき、道がカーブするごとに、見る角度が変わり、いろな姿を見せてくれる。
【写真左】

最も高い岩、マウント・オルガが、地表綿からの高さ546m(海抜1069m)。ガイドは、「オルガは頭という意味。頭がたくさんあるからオルガス。」などと笑わせている。確かに、一つ一つの岩は頭に見えないこともない。オーストラリアの何かのCMでそんな絵を見たことがある。しかし、後で買ったガイド・ブックによれば、1872年、ヨーロッパ人で初めてこの岩山を発見したアーネスト・ジャイリース Arnest Giles が、当時のスペインの女王の名にちなんで、Olga と名づけたとある。ちなみにオルガスの北東部にある湖、アマデウス Amadeus は、やはりスペインの国王の名前である。

バスを降りて、オルガ渓谷 The Olga Gorge を歩く。ゴツゴツとした岩肌に挟まれた渓谷を、約1時間かけて往復する。
ウォーキング・トレイルの両側には、風化して崩れ落ちた大小の岩石がゴロゴロと転がっている。この奥が風の谷 The Valley of Wind。宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」は、ここをイメージして作られたという。
エアーズ・ロックとは、そのでき方も岩の地質学的材質もかなり違うようだ。

オルガスからエアーズ・ロック・サンセットのビュー・ポイントに向かう。
夕陽に映えるエアーズ・ロックはサンライズのそれよりも素晴らしいと、かねがね聞いていた。日が西に傾き始める頃から、徐々に岩肌が赤へ赤へと変わっていき、そして日の沈む瞬間に真っ赤に燃えるのだという。(左の写真のように。)
しかし、今日の西の空は曇天。どうも、パースの夕陽以来、サンセットには縁がなさそうだ。